水大歳時記(令和二年度)

  夏 の 部

       

  波枕   思い出すのは   君のこと   貴女と過ごし   終わらせた夏

  夏の声 響き渡る どこまでも

 

  初夏(しよか、はつなつ)

梅雨明け   蝉のおと 常にひびくと 夏はじめ

  初夏の候 海に入って 遊びたい

  夏始め  さえぎる雨の  いたずらに

 

    入梅(にふばい)

  梅雨はいり 雷鳴ひびく 夏の訪れ

  梅雨がきた おうちで勉強 頑張るぞ

 

       夏至

  夏至の日の 器に盛られた 赤い雪山(字余り)   夏至の日の 器に盛られた 夏氷

  夏至の日に水無月食しうたた寝す

 

       晩夏

  セミ落つる 晩夏の昼も 墨削る。

  夜風が 夏の終わりを 告げに来る

  スーパーで晩夏見つけて立ち止まる

 

    梅雨明(つゆあけ)

  雨の音止むとたちまち梅雨明ける

  梅雨明けて夏の訪れ感じます (佐藤直哉)

  梅雨明けて ニョロリと動く 黒い奴

  梅雨がすぎ   洗濯できて   鬱治る

  梅雨明けか 洗濯物へ 水分補給

  梅雨明けて ようやく干せる 布団カバー

  梅雨明けて 暑さ厳しい 夏の時期

 

       夏の夜

  寝られない エアコンなしの 夏の夜

 

       熱帯夜

  梅雨明けて 暑さ長引く 熱帯夜

  二十歳を祝うておるのか熱帯夜

 

       暑し

  宵闇の 暑さにうだる 魚かな

 

     夏の果(はて)

  終わる夏   入道雲も   見えぬまま

  夏すぎて 木の葉がカサカサ 音立てる

 

       夏の日

  太陽が  じりじり照らす  今夏の日

 

       夏の空

  夏の空 どこまで続くの 青い空

  ジリジリと 陽が照らす空に 鳴く声よ

 

      梅雨の空

  孤独で 口開け眺める 梅雨の空

  梅雨の空 つられて気分も どんよりと

 

       雲の峰

  セミの声入道雲が呼んでいる

  早く来い   入道雲よ   早く来い

 

      梅雨の月

  めずらしい夜に輝く梅雨の月

 

       夏の星

  涼しさを求めて外に夏の星

 

       夏の風

  暑い日々涼しさ感じる夏の風

  海の風迷惑客を呼び寄せる

 

       夏の雨

  夏の雨 湿気と暑さで 嫌になる

 

     梅雨(つゆ)

  山陰の 梅雨の装い 天の海

  青梅雨や故郷の山の影は真か

  朝起きて 雨に憂鬱 梅雨の時期

  荒梅雨 開く傘と 雨合羽

大豪雨   梅雨になれ 激流化す 西田川

  走り梅雨 蛍の光を 飲み込まん

「円模様」   送り梅雨 海と混じりて 円模様

 

五月雨(さみだれ、さつきあめ)

   五月雨やもろとも流せ不安と共に

 

    夕立(ゆふだち)

  夕立で 駅のホームが キャンバスに

 

       

  雨あがり 自転車こぐ背に 虹が出る

 

    梅雨晴(つゆばれ)

  みずたまりの池飛び越えて梅雨の晴れ

 

       炎天

  炎天下 すぐに飲み干す 百十円

 

       夏の川

  夏の川 黄色に光る ホタル星

  夏の川 砂を巻きあげ 逃げる鯉

 

     出水(でみづ)

  一瞬の静けさ恐れる出水前

 

       夏の海

  涼求め 足跡増える 夏の海

  夏の海 泳ぐ魚と わたしの目

  夏の海 干潟に集う 潮干狩り

  夏の海波間を眺め思い馳せる

  パタパタと足跡遊ぶ夏の海

 

       夏休み

  夏休み 今年は実家で 自粛かな

  学校が 遠くに見える 夏休み

  夏休み 帰ってくるなと 親が言う

  父親の 背丈を超えた 夏休み

 

       夏料理

  追い打ちで 暑さと刺激 夏料理

 

    冷奴(ひややつこ)

  恐る恐る 自粛解除や 冷奴

 

      清涼飲料水

  ラムネ買う   おまけでついてく   10年前

  レモン果汁   ジュースに入れる   18歳

 

    氷菓(ひようくわ)

  縁側で 汗と零れる  氷菓食べ

  受け取ったアイスの冷たさ映し出す      あなたの瞳の寂しさ全て

 

       冷房

  エアコンが 壊れたらキツい この季節

 

       扇風機

  眠るため涼しさつくる扇風機

 

     鵜飼(うかい)

  間違えて 飲み込んじゃった 鵜飼かな

 

       ヨット

  行く先へ 風に任せる ヨットかな

 

       泳ぎ

  前海に小雨ふって泳げない

 

       海水浴

  海水浴浜には輝くお姫様

  海水浴   白波酒造   と夏コラボ

 

       花火

  花火あと   わかものたちの   夢のあと

  秘密裏に君も花火も夜咲いて

 

       日焼

  日焼け痕見て思い出すあの日々を

 

       

  阿南市で 中止になった 夏祭り

 

    雨蛙(あまがえる)

  梅雨入り心体もアマガエル。

 

     鯰(なまづ)

  下を見て 髭を振り揺らす 夜の鯰

 

      鮎(あゆ)

梅雨   増水し 鮎懸命に 引きこもる

 

      蟹(かに)

  玄関に カニが1匹 かくれんぼ

 

   海月(くらげ)、水母

「くだけ波」   くだけ波 海月も波と 化しくずれ

  暑さ負け クラゲの如く ふわふわと

  巡りくる 弾む鼓動や 水水母

 

     蛍(ほたる)

  待ちわびて 見え隠れする 夜の蛍

  最終日   飛び交うホタルと   散る火花

 

      蝉(せみ)

  梅雨明けてセミの鳴き声夏来たり

  セミが鳴くことで季節を感じとる

  セミ鳴りて 根元に寄るは わらべ歌

八月の夏   雨上がり 青く眩しく 蝉が鳴く(後藤竜希)

  セミと雨  交互に鳴らす  ハーモニー

  ミンミンと セミが暑いと 騒いでる

  外に出る   気づけば聞こえぬ   セミの声

 

      ごきぶり

  ゴキブリは 目にもとまらぬ うごきぶり

 

     羽蟻(はあり)

  群がるよ 光がある所 羽蟻が

 

   蜈蚣(むかで)、百足

  ばあちゃんの手を這う百足青い空

 

    蛞蝓(なめくじ)

  梅雨に入る 廊下に蛞蝓 めちゃおった。

 

    蝸牛(かたつむり)

  かたつむり   水玉模様   美しい

 

    紫陽花(あぢさゐ)

  一本の誇らしげなる紫陽花を      赤く染めるはアントシアニン

  あじさいの花の顔色土地の色

 

   さくらんぼ、桜桃の実

  さくらんぼ 実が赤ければ 食べごろだ

 

      月下美人

  照らされる  月下美人と  住む世界

 

    豌豆(ゑんどう)

  エンドウをみんなでたべて仲直り

 

     胡瓜(きうり)

  まっててね胡瓜きる音昼下がり

 

       授業

  コロナ渦 課題がたまり 苦しかな       (編者)「渦」は「禍」?それともあえて?

  立ち漕ぎで 駅へと向かう 夏期講習

 

      学生生活

  鳳凰が火を挙げ空に舞い上がる      残る星々照らす跡形

  雨と本   浸り染み込み   一ヶ月

  帰り道 水を蹴飛ばし 走る道

  さざ波と うっすら焼けた 足音二つ

  人々の 安心願った 大輪の花

  粘菌を這わせた先に見えるのは      我らが未来使う路線図

船釣り   大海原カモメが回る目も回る

結露   肝試し 心と身体の 結露かな

  川流れたり 流れたり 流れたり

  日だまりに 人の集まる 駅ホーム

  雨の日の心はいつもレイニーブルー (佐藤直哉)

  生き生きしさざ波ゆれるフルコース

  洗車雨の降る夜の空見上げたら      再会を待つ二人の姿

  ケロケロと 雨を乞う声 聞こえるよ

  画面越し 彼方と語らう 文字だまり      とある晩の 現実逃避

  雨音と 自粛する日々 数えつつ      渇きを待つは 報われぬ日々

「催涙雨」   催涙雨  会いたい願い  雨となる

  雨降って   洗濯できない   はよ晴れて

  甲子園 熱く燃えてる 球児たち

  スポーツの 再開告げる  ホイッスル

  太陽に 強いられてさく お花さん

  憧れを抱き努力を積み上げて      行き着く先は夢の懸け橋

  そうめんは作るの簡単すぐ飽きる

  道の脇起きぬ親猫口の紅

穴釣り   糸たらし 何が出てくる 宝箱

  誕生日扉の向こう寝ぼけ顔

  忘れ去るにはまだ早すぎる

  幸せを映す画面のその中に      入り込めたら楽になるのに

 

       

   ただそれだけだった
 虫と暮らす一人暮らし  窓の横にあいたわずかな隙間が  虫の玄関  入ってくるのは虫だけだった  誰も来ないインターホン  聞こえてくるのは  羽の音  いるのは虫だけだった
 やることはたくさんある  だけど暇だった  そういって  構ってくれるのは虫だけだった
 虫を殺そうとした  叩いた手の赤みだけが  ただそれだけが  未だに残ったままだった
 私が信頼できるのは  蚊取り線香だけだった

  (雨宿り)
 雨宿り  「降っちゃったね」と  笑う君  私の心は  暴風雨       (編者)題名は編者による仮のものです。

   コロナウイルス
 コロナ   それは突然のことであった  コロナ  それは私たちの生活を一瞬にして変えた  コロナ  それは世界を変えた
 私たちの眼には見えないくせに  ちっちゃいくせに  人間のほうが大きくて知能もあるのに   強そうなのに
 コロナ  もしや未来まで変えたのかも  コロナ  もしや人類を蝕むつもりなのか
 人間は意外にも脆く弱かった  いつかは勝てるのか
 コロナそれはもしや、、、

  (泣き顔)
 あの日見た  夕陽と花火  オレンジ色に  染まる私と  君の泣き顔       (編者)題名は編者が仮につけました。

  (蛍)
 とある夜  光るは蛍  驚く貴女  「お化けと思った」  笑う私       (編者)題名は編者が仮につけました。

 

      エッセイ

   オタクについて(エッセイのつもりです)
 今の日本ではアニメが文化として受け入れられつ つある状況にあります。また、アイドルのAKB48 はミリオンセラーをだしたアルバム数ではトップを 飾り、いわゆるアキバ系アイドルが勢力を伸ばして います。その中で、この2つの名前を聞いてオタク という言葉を連想する人も少なからずいるはずです。 オタクの想像する姿は人によって様々ですが、オタ クとはそもそもどういう人達なのか考えたことはあ りますか?  私がこのとこを考えるきっかけになった出来事は、 中学生のときにありました。当時中学一年生だった 私にはアニメ鑑賞を趣味としている友人がいたので すが、その友人はそれから3年かけて周りからオタ クと言われる存在になったのです。趣味がアニメ鑑 賞という立場からどのタイミングでオタクと呼ばれ ていったのか私はそのことについて疑問を持ちまし た。当時の見解としては、グッズを収集しだしたら オタクだという結果になりました。その友人は、中 学2年生の頃から特に好んでいたキャラクターのフィ ギュアや、ポスターを買うようになり、そのグッズ を部屋に飾り始めたと聞き、その部屋を訪れたとき、 見た部屋の景色が、自分がオタク部屋として想像し ていたイメージと合致し、この結論に至りました。               つづく

(俳句はあまり得意ではないので、小説の書き出し を何個か考えて送ろうと思います。)  初夏の薄明の空と、それを映し出す海原を背にし て、その少年はこちらを見ていた。  崖の端に立ち、一歩下がれば落ちてしまいそうな 場所で彼は私を見て嬉しそうに笑っていた。  人形のような端正な顔立ちと、染めたとは思えな い自然なアクアブルーの髪、長さは女性で言えばショ ートくらいで、少し外に跳ねている。背は150セン チ程だろうか、体は今にも折れてしまいそうなほど に細い。  現実的とは言えないその様相の中でも最も目を引 くのは海と星空を混ぜて凝縮したようなディープブ ルーの瞳だ。それを見ていると引き込まれてしまい そうで、一抹の恐怖を感じる。だが目を離せない。 今までに見たどんな宝石よりも魅力的で、煌めいて いるその瞳から私は目を逸らせない。  どうしようもなく立ち尽くしている私を尻目に、 彼は後ろに倒れていった。  私は声をかけることも手を伸ばすこともできない まま惚けていると、何か大きなものが海面を貫く音 がした。  そのあとで私は我に帰り、崖から少年の姿を探し たが見つからず、すぐに警察に連絡したが、結局彼 は見つからなかった。

  蛍火や さきざき照らす 暗き道 先日、吉見の自宅近くに蛍を見に行きました。蛍が 夏の季語ということで、吉見の暗い町も、いまだ行 く末がみえないコロナ禍も。蛍(のような光)が、 先を照らしてくれることを願って考えた俳句です。

    枇杷(びわ)
  木の上へ   上り掴んだ   枇杷の金(かね) この時期になると枇杷の実がおいしく実ります。上 の俳句は自分が小学校時代のとき、校庭で実った黄 色い枇杷の実の中でも木の上のほうにある傷のない 実を、木に登ってまで採って貴重なもののように食 べたりあげたりしていたことを思い出しながら読ん でみました。

  増す雨そとにでられず井水増す。  いくつかの対面授業も始まり、人と会う期会は多 くなったが、つゆも始まり、いろいろとイライラと することが多くなってきました。雨好きであったの (で)以前まで、梅雨は好きでしたが、ウィルスやら なんやら(で)少々嫌いになりました。嗚呼五月蠅 い、面倒(くさい)       (編者)「機会」です。なお( )内は編者が補いま        した。

  ノドグロは 赤いルビーと 呼ばれてる  ノドグロが好きで俳句を作ってみましたが、あま りうまくできませんでした。次回頑張ります。

  紫陽花の虹色キャンバス眺む日々  紫陽花が綺麗な季節になりました。  紫陽花は様々な色があり、どこのお家の紫陽花も 同じ色がなく、何色あるかと問われたら、虹色ほど だとおもいます。梅雨にはいり、外にでることが少 なくなりましたが、自宅から紫陽花を眺めて楽しん でいます。

  世界一高い建築あるけれど      競い合うのは隣国の民 (現在世界一高い建築物であるアラブ首長国連邦の ブルジュ・ハリファはサウジアラビアで建設中のジッ ダ・タワーが建設されると世界一ではなくなってし まいます。アラブ首長国連邦とサウジアラビアは隣 同士の国なので、隣国だけで争っているように見え ました)

  雨上がり虹を目指して歩く午後  この句は、午後に雨があがり、雨があがったらきっ と虹が見えるだろうと希望をもって外にでて、空を 見上げながら住んでいる町を散歩するシーンを切り 取った句である。正直、見えない場合が多いのだが 見えたときは、とてもうれしい気持ちになるので、 散歩をするのが少しの楽しみになっている。

父の日   電話越し ふと気が付くと 父の日が      今年もできぬ 親孝行を  父の日が近づくと何か親孝行しようとするが結局 プレゼントみたいな具体的な結果がうまくでない。 今年は遠く離れているので何か贈り物を郵送しよう と考えたが、そのために働くことをしなかったので 今年もうまく形にできなかった。そのことを短歌に してみました。

  夏至過ぎて 足元ただよう 影のびゆく  つい先日、夏至でした。1年で1番日中が長く、 太陽が高く昇ります。夏至を過ぎると秋分、冬至に 向かい太陽は高度を下げていきます。  つまり自分の姿の影は夏至が1番短いわけで、こ れからはどんどん長くなっていきます。  まだまだ夏とは言えない気候ですが梅雨が明ける と夏がきて、影がどんどんのびていくでしょう。  これからの季節の雰囲気を陰ながらだせたと思い ます。

旱梅雨(ひでりづゆ)   碧い海 青い天蓋 旱梅雨  一昨日までの、旱梅雨になったときに水大の表海 に広がった風景を俳句にするとこうなりました。

   「中学の思い出」  とある日曜の夜、私は徹夜を覚悟した。明日のテ ストの勉強を全くしていなかったのだ。しかし、そ う焦ることはない。まだ日曜の夜は始まったばかり である。一晩もあれば片付くだろう。しかし私の考 えは甘かった。1時、2時、3時・・・恐ろしい速 さで夜が更けていく。まずいこのままでは間に合わ ない!冷や汗をかくと同時に目から涙があふれてき た。手は震え、視界はゆがみだした。これが悪夢で あればいいが、どうやらそうではないらしい。4時 半。外で小鳥が泣き出した。  朝を迎えてしまった。私は敗北したのだ。

季語:鮎   簗(やな)の上 あの日の鮎は 雲の上  その昔、私が小さいときには家族で山奥の簗へ鮎 を食べに行ったことを夏の季節になるといつも思い 出しますが、ここ数年そんな機会には恵まれないま まに私は山口に引っ越してしまいました。もはや昔 の出来事は二度と味わえないものだなぁとかんじな がら、この詩を詠んでみました。

  夏が来る そろそろ海に 飛び込もう  イサキの産卵時期が終わり、梅雨の終わりが感じ られるようになり、夏の到来がまじかなので、俳句 を作ってみました。

  道の前 コロナの風と 梅雨の雨      先を見るのは いつ頃なのか  自分は大学に入る前には呑気に大学生活の内容を ぼんやりと考えていました。  しかし、三月ごろから世界中でコロナウイルスが 大流行し、多数の感染者と致命的な不況が起こって 水産大学校でも対面授業ができなくなってしまった ことで将来の見通し的にも前が見えず、また吉見で は7月上旬でも梅雨の雨が降りしきって景色的にも 前が見えづらいところを、詠んでみました。

季語:蝉   また聞けた 耳をつんざく 油蝉  今年も梅雨が明けてきて、やかましくもうれしい 蝉の声が朝から聞けるようになりました。梅雨明け の晴れ空と共に印象に残ったので俳句として詠んで みました。

季語:大暑   海へ行く 大暑の日々は 今ここに  もう七月も終わりに来て、八月になろうとしてい ます。7月22日から8月6日までの大暑はクラゲも 比較的少なくて海にはいる最適の時期ですよね。お 盆前の今の、空いた時間で海水浴を楽しんでいると ころを歌に詠んでみました。

 

【第1回目俳句感想文】
  六月の太平洋と早起きす(矢島渚男)  私がこの俳句を目にして一番最初に思い浮かんだ 情景は船の甲板で水平線から上る朝日を眺めている 光景だった。六月の梅雨の時期、久しぶりの快晴の 空に差し込む明るい日の光は幻想的で、西の空はま だ少し暗くて、紫から青へと変化する空。早起きを したからこそ見ることができた一枚を現した素晴ら しい俳句だと思う。

  六月の太平洋と早起きす(矢島渚男) ・作者は六月の早朝、清々しい思いで、太平洋の波  の音とともに目を覚ます。  静かな朝のはずが、どこかにぎやかに感じられる。  これも波のおかげなのだろう。  そしてまた今日がはじまる。  そんな情景が浮かぶ俳句でした。

  六月の太平洋と早起きす(矢島渚男)  六月には夏至がありその一週間ほど前は日の出が 最も早く、世界で最初に朝を迎えるのは太平洋でそ の二つをかけた俳句で夏の訪れを感じました。

  六月の太平洋と早起きす(矢島渚男) ・季節が夏になるにつれて夜明けが早くなってくる のを、太平洋という大きな存在のものと自分とを一 緒にして「早起き」とまとめているところがいいと 思った.

  六月の太平洋と早起きす  六月になり、日の出が早くなったため、朝早い時 間に朝日で目が覚め、早起きしてしまうのではない だろうか。早起きしたので、外に出てみると、太平 洋から朝日が上っている風景が思い浮かぶ。  私も、最近朝日で目が覚め、また、段々早起きに なっていたため、とても共感できる句だった。

 僕が気に入ったのは 「六月の太平洋と早起きす」です。 海とともにあるということを表現されていてとても いいと思いました。

  六月の太平洋と早起きす  他の俳句に比べてどういう情景かが浮かんでくる だんだんと日の出が早くなってきた6月の早朝の太 平洋上の地平線から顔を出す朝日の神秘的な景色が 想像された。

  六月の太平洋と早起きす 矢島渚男 矢島渚男(やしま なぎさお)について調べてみる と、彼は長野県で生まれたことが分かった。長野県 は海なし県である。また、俳人としての名前である 渚男の「渚」とは、主に海の波打ち際のことである。 この事からこの句は、海に憧れる男の遂に海と接し た喜びを表現しているのだと考えた。

  六月の太平洋と早起きす この俳句から、暑い日が続くなか、早起きをしなけ ればならない、まだ寝たい、という心の声が 感じれ て、自分もそーしたいと思った。

  6月の太平洋と早起きす(矢島渚男)  私は京都府北部出身で、ずっと日本海側で暮らし てきた。旅行などもあまり行かないため今まで片手 で数える程しか太平洋側に行ったことがない。日本 海側と太平洋側では早起きした時感じるものはどう 違うのかとう興味といつか太平洋側で朝日をみたい という憧れもあり、この句を選択した。  大学がある吉見は日本海側だが、地元でみる朝日 と少し違う気がする。初めて吉見に来て早起きした 際とてもワクワクした。このコロナ渦のせいで6月 中に作者と同じようにすることは出来ないかもしれ ないが、いつか私もどのように感じるのか体験して みたいと思った。

六 月 の 太 平 洋 と 早 起 き す             ( 矢 島 渚 男 ) (感想)  一見よくわからない詩だと思ったのですが、太平 洋と起きることで自分も早起きになり自分の体で季 節の変わり目を感じているというとても考えられた いい詩だと思いました。

六 月 の 太 平 洋 と 早 起 き す              ( 矢 島 渚 男 ) 感想 ・著者が六月を選んだ理由は夏至があるからなのか なと思いました。1日が最も長い日なので朝も早く 日が出るから太平洋から昇る朝日で早く起きたとい う状況が想像できました。たった11文字なのにそ の背景を想像させることができるのはすごいと思い ました。

  六月の太平洋と早起きす (矢島渚男) 感想  六月になってから日が昇るのがとても早く なっているので、太平洋に太陽が昇るくらい早起き するのは早起きが苦手な私にとっては難しいなと感 じました。

  六月の太平洋と早起きす  6月の太平洋の日出時間が早いのかなと思いまし た。太平洋の沖に出ると何もないので太陽が眩しく て、目覚めてしまうのだと思いました。

  六月と太平洋と早起きす 感想  最近あさ早起きしているためこの句がなんかよかっ たです。

  六月の太平洋と早起きす 感想  私は、いつも朝、漁に行くときは真っ暗で夜が明 けていないけれども、6月になると漁に行くときに は既に明るく、太平洋の水平線から太陽が上ってい る光景がまるで早起きをしていることだと感じまし た。

六 月 の 太 平 洋 と 早 起 き す            ( 矢 島 渚 男)  山口にいるので、太平洋と早起きすることができ ないので、日本海と早起きしたい。

【選んだ俳句】   六月の太平洋と早起きす  矢島渚男 【感想】  朝日が水平線から出てきて、海がオレンジに輝い ている美しい景色が思い浮かびました。また、六月 の日の出は四時ごろであることから、俳人はかなり 早起きしたのだと考えられます。そこから、今まで の布団だと暑かったのか、寝苦しかったのかと季節 の変わり目が早起きの原因であると推測することも できます。朝の海の美しさと季節の移り変わりが感 じられる俳句だと思いました。

  六月の太平洋と早起きす (矢島渚男)  夏至へ向かって日の出がどんどん早くなっている。 太平洋も光を受けて輝き出すし、作者も日の出の眩 しさに目を覚ましてしまう。

選んだ俳句:六月の太平洋と早起きす (矢島渚男) 感想:この俳句を読んで直観的に思ったことは、作  者はこの六月に太平洋沿いに住んでおり、普段と  は違うことを感じたのだなと思いました。六月の  季節を想像すると梅雨の時期に関係する意味があ  るのかと考えましたが、そこから太平洋と早起き  につながる具体的な内容は思いつきませんでした。  ですが、この早起きが目覚めの良いか悪いかで前  向きか否かの気持ちを詠むのではないかと推測し  ました。この俳句を面白いと思って選んだ理由は、  月を変えて太平洋につなげれば12の俳句ができて、  それぞれの月の様子が読める作品を作れて面白そ  うだなと考えました。

「六月の太平洋と早起きす」  夏至となる6月中旬に近づき日の出が早くなる。 朝日を浴びて光り輝く太平洋の海原と共に作者も自 然と目が覚め早起きしてしまう。朝日が昇る様子を 「太平洋」を焦点とし、表現しているので、その場 の情景が鮮明に思い浮かびました。今年の元日に大 洗海岸で見た岩礁に打ち寄せる荒々しい海と神々し いご来光を思い出しました。初日の出を拝むために 前日から待ち望んでいた当時の私の地持ちに通ずる ものが筆者の気持ちにもあったのかなと感じられま した。

    六月   六月の太平洋と早起きす (矢島渚男) 感想  私が高校三年の六月に航海実習でオーストラリア へ40日航海を行った時に赤道付近でラジオ体操をし ながら同級生と見た日の出を思い出しました。  その時私は船の環境に飽き飽きしており、ほぼノ イローゼの状態でした。しかし鏡のように穏やかだっ た海の水平線の先に見えた太陽で一気に心が晴れて いったのを覚えています。この大学でも見られるこ とを願います。

  六月の太平洋と早起きす (矢島渚男)  6月はほかの月に比べて一番日の出が早く、例え ば太平洋に面している東京では4時30分ぐらいには 日の出を迎えている。そこで、作者は6月の真っ赤 できれいな朝日に寝ているからだを照らされ起きた 時、きれいさに感動する思いとふと時刻を確認した ときの、まだこんなにも朝早いのかという驚きがあっ たのではないかと考えた。またその後、外に出たと き太平洋を見てみると赤く海面が照らされ、非常に 神秘的であり、普段の青い海と寝ている自分をかさ ね、日の出によって真っ赤に染まる海を見て、自分 と同じように起こされたのかと思っているような作 者を私は想像しました。

  六月の太平洋と早起きす (感想)  六月になり段々と日の出が早くなるとともに、自 分の起床時間も早くなるのを実感することが多くな り、この詩に共感するところがありました。

  六月の太平洋と早起きす   六月の朝、太平洋側から太陽が昇ってき、その光 で目覚めるというような情景が頭の中で浮かびまし た。私は、今年から、初めての一人暮らしです。様 々な不安がありますが、私も速くここでの生活に慣 れ、日本海側から見える太陽の光で気持ちの良い目 覚めができるようになりたいと思いました。

 六月の太平洋と早起きす」が気に入りました。 【感想】私は海無し県の栃木から海が好きだから水  産大学校に入学し、海が目の前に見えるアパート  に引っ越してきました。ここは太平洋ではありま  せんが早起きした時にぼーっと海を眺めている自  分と俳句の情景が重なったところがいいなと感じ  ました。

 私が気に入った俳句は ジューンブライド小(ち)さきチャペルの    扉(と)」が開いて です。 理由は、ほかの俳句に比べてあんまり難しくなく、 そのままで意味が取れるところです。私は古典はあ まり得意ではなかったのでこの句が一番意味が分か りやすかったからです。ジューンブライドが幸せの 証であるように今から幸せになることができるのだ なと感じました。うらやましくも思いますが、それ よりは素敵なうただなと思いました。

好きな句:ジューンブライド 小さきチャペルの         扉が開いて 感想:ジューンブライドとは古くからヨーロッパで  「6月にけっこんする花嫁は幸せになれる」とい  う言い伝えのことで、その6月になると結婚式を  挙げるカップルが多くなるということが調べると  わかった。それを知った上で、この句をよむと、 「ジューンブライドになり多くの男女がチャペルで  結婚式を開こうとしていて、その結婚式の始まる  タイミングの合図のようにチャペルの扉が開いた」  という様子が思い浮かんだ。そして、チャペルの  扉が開き結婚式が始まり、それと同じくして2人  の新しい未来(結婚生活)が始まることを創造さ  せられた。自分としては、新しい結婚生活はよい  ものだけではないと思った。なので、あまり幸せ  ではない未来が待っている人もいるだろうと考え  ると、この句は少し悲しく感じもした。

    ジューンブライド小さきチャペルの扉が開いて  六月に結婚式を挙げると一生涯幸せな結婚生活を 送れるといわれているように、幸せな情景が浮かん でくる。

  ジューンブライド小(ち)さきチャペルの      扉(と)が開いて (長島和子) 感想  この句を詠んだ瞬間に6月の結婚式の風景が想像 でき、とても印象に残りました。  また、「扉が開いて」と打ち切られているためこ の後の展開が自分なりに想像でき、詠む人によって 様々な捉え方ができるので面白いと思いました。「小 さきチャペルの扉」の部分では情景がより明確に想 像することができ、「小さき」というサイズ感がか わいらしいなと思いました。

  ジューンブライド小さきチャペルの扉が開いて               (長島和子)  この句を選んだ理由は、六月になり、ジューンブ ライドという単語を耳にする機会が多くなりはじめ、 梅雨入りはいつだろうかと考えるようになってきた からである。また、「小さ き扉が開いて」と書かれ てあり、新婚夫婦の新たな門出をうまく表している なと思ったからでもある。  もう一つは自作の俳句(季語が入っていないため 俳句とは呼べないかも知れないが)である。   声援の戻る日いつか競馬界  これは私の趣味である競馬鑑賞での一句である。 競馬にかぎることではないが、新型コロナウイルス 感染予防の一環として無観客で競馬が行われており、 先週の日曜日(五月三十一日)に競馬の祭典ともい われる東京優駿(日本ダービー)が無観客で行われ た。いつもなら東京競馬場に十数万におよぶ観客が 押し寄せ、大きな歓声が巻き起こっているのだが、 今年は、実況の声以外には何も聞こえず、いつもよ り悲しいレースだった。仕方がないとはいえ、歓声 の無い競馬や、サッカーなどのスポーツはあまり面 白いものではないなと思い、今までは考えもせずに 応援に行けたことが、大きな幸せだったのだなと感 じ、この句を詠んだ。

  ジューンブライド小さきチャペルの扉が開いて                長島和子 感想  今まで私は学校の授業で、俳句や川柳を提出する とき、日本の文化にはカタカナは似合わないだろう と決めつけてカタカナは使ってこなかった。しかし、 それは、新しい領域に入ることについて恐れている だけという解釈もできる。この俳句は、そんな私に カタカナを使った俳句の良さを教えてくれるような 作品だと感じた

「ジューンブライド小さきチャペルの扉が開いて」 感想  6月に行われる結婚式を想像しました。都会では ない、周りには木々が芽生えるこじんまりとした所 でしょうか。6月は梅雨ということでしとしと雨が 降っている中での式かと思いましたが、作者が旧暦 でかいたのだとしたら夏の出来事かもしれません。 ですが私のイメージとしては、雨が降った後であり、 葉に残った雨粒が陽の光に反射してキラキラと輝い ている状態での式の様に感じました。

  川が匂ひて六月の日暮れかな (感想)  俳句において、六月の季節は春を表します。この 月は、川でホタルがでてくる時期です。吉見里町で ホタルを見たのを、この句をよんで思い出しました。

  川が匂ひて六月の日暮れかな  梅雨の時期、雨が降る前兆として特徴的な川のよ うな匂いが辺りに充満する様子が伝わってきた。私 は、ジメジメして蒸し暑い梅雨が嫌いだが、俳句の 作者は、その情景によって梅雨が来るのを感じ、 『ああ、梅雨が来たよ』というしみじみとした感情 になっているように思った。暮らしにくい梅雨の情 景を俳句にするのもいいと思った。

「川がにおひて六月の日暮れかな」 の句について、内容がそのまま入ってきてわかりや すく共感しやすかった。六月の川といえば蛍が浮か んできて地元のほたる祭りのことを思い出させてく れた。日暮れ時からあるほたる祭りは大きなもので はないが地元の子がきて小学生のころの自分にとっ て、とても楽しいもだった。日が暮れるのが遅くな れ始めた夕方の匂い、川の匂い、その当時のことが 浮かび上がってきて、昔にタイムスリップしたよう な気分を味わえるような句で私は好きだ。

 私が好きな句は小川匠太郎さんの『川が匂ひて六 月の日暮れかな』です。  選んだ理由として季節の変わり目は空気のにおい が変わるのように川のいつもと違うにおいで六月の 末、あるいは太陽が沈むのを感じるといった表現が 素敵だと思いました。

  川が匂ひて六月の日暮れかな (小川匠太郎) 少し草木が茂ってきて湿ってくる時期、夜が近づい て川を駆け下りるように吹く風に草木の香りがのっ ている場面を匂い、六月、風景の3語で表現してい るところに繊細さを感じました。

川 が 匂 ひ て 六 月 の 日 暮 れ か な            ( 小 川 匠 太 郎 ) (感想)  自分はこの詩を読んで六月の梅雨の時期に雨が上 がり、湿度が高くなりむんむんと立ち込める暑さか ら夏の訪れを感じる詩だと思いました。また雨のお かげで川の周りのコケなどが濡れてじめっとしたコ ケのにおいが川のにおいと感じてこれからの夏の始 まりに胸が躍る気持ちになりました。

  川が匂ひて六月の日暮れかな (小川匠太郎)     梅雨の星、麦星 (感想)私は、牛飼座のアルクトゥールスを麦星と 言い、梅雨の星とも言い、六月を連想していること に私は星が好きなので、良いなあと感じました。

  川が匂いて六月の日暮れかな 感想  私の実家が川沿いにある為、学校からの帰り道で 感じた湿っぽい匂いを思い出すような懐かしい句だ と思いました。

  川が匂いて六月の日暮れかな (小川匠太郎) (感想)  「川が匂いて」という部分を見て、自分は「川干」 を連想しました。六月だったかどうかは忘れました が川干でくさい臭いがしてくるともうこんな時期 かぁ‥と毎年思います。

  川が匂ひて六月の日暮れかな  今の時期とちょうど重なっているので、自然と情 景が浮かび上がり、こころひかれました。

川 が 匂 ひ て 六 月 の 日 暮 れ か な             ( 小 川 匠 太 郎 ) 感想:夏本番になり日暮れでも蒸し暑く、湿気とと  もに河原に生えた草や土の匂いがするさまが書か  れている。

  川が匂いて六月の日暮れかな  梅雨の時期によく川の匂いが際立ったり、初夏に 川遊びをしたことを思い出した。

  川が匂ひて六月の日暮れかな(小川匠太郎) 感想:この俳句を詠んだ時、「六月の日暮れ」とい  う言葉が夏の終わりを告げているような感じがし  ました。

  川が匂いて六月の日暮れかな(小川匠太郎) 感想)私は、この俳句を見たときに梅雨の時期の夕  暮れが頭に浮かびました。高校時代に梅雨の夕暮  れの空を見ると、梅雨前線の湿った影響で太陽光  が屈折し燃えるような紅に染まっていました。ま  た、梅雨の星空も雲の間からわずかに見えること  や雨が降った後の匂いなどで梅雨が感じられまし  た。

  川が匂ひて六月の日暮れかな  僕はこの句が挙げられていた10個の俳句の中で最 も風景や情景が想像しやすいと思いました。 「引いてゆく長きひびきや五月波」も想像しやすく 良いと思ったのですが、小川匠太郎さんの俳句のほ うがはかなさを感じ取れたので、僕は選びました。

 私の好きな俳句は川 が 匂 ひ て 六 月 の 日 暮 れ か な ( 小 川 匠 太 郎 ) である。 理由はまさに6月は今月であり私の家の隣は川であ る。これだけでもこの俳句には親近感が持てるが6 月の日暮れに川の匂いが漂う中、長い7時まで沈ま ぬ夕日を今か今かと待った後訪れる夕暮れ時がこの 上なく好きであるからである。

  川が匂ひて六月の日暮れかな(小川匠太郎) 感想:梅雨のじめじめした六月ではなく、さわやか    な六月のイメージがした。    自分も梅雨の夕方にいつもと違う匂いや雰囲    気を感じたことがあるので作者の気持ちが分    かる気がした。

  川が匂ひて六月の日暮れかな(小川匠太郎)  他の俳句より比較的読みやすい気がした。それで も、言っていることは何となくわかるが、何を伝え たいのかあまりよくわからなかった。

  川が匂ひて六月の日暮れかな(小川匠太郎)  季語は旧暦にしたがうということだったが、ここ における「六月」とは今の6月と同じであろう。 6月といえば4月、5月のように偶に肌寒い日がな く、初夏の先取りといわんばかりの暑さを感じるこ とができる。 そこで夕方くらいになると日中の日差しをうけ川の 水温が上がっていて、気化しているのか独特な匂い を嗅ぐことがある。この匂いから今年ももう半分過 ぎてしまったのかと思うのが毎年のことだった。  しかし、コロナウィルスの影響で毎年なにげなく 感じていたことが体感できなくなるとは思いもしな かった。  近いうちにこの句のような光景にマスク無しで立 ち会いたいものだ。

     梅雨の星、麦星   麦星や灯を消してある余呉(よご)の駅               (茨木和生) 感想 ・春の終わりから夏の初めに、オレンジ色に輝く麦  星(アルクトゥールス)が、夜に光を消してある  余呉の駅との光と影のような対比が美しく見えオ  レンジに輝く星が麦の穂を連想させ、子供の頃の  星を見て楽しんでいた頃を思い出させてくれまし  た。

  麦星や 灯を消してある 余呉の駅(茨木和生)  麦星とはおとめ座の一等星、アークトゥルスのこ とで、詩にも出てくる余呉を含め、関西地域では麦 の収穫の際高く見える星として麦星と呼ばれていた そうです。おとめ座のモチーフはギリシャ神話の農 業の女神デルメルであり、おとめ星は彼女が麦を持っ ている姿だそうです。遠く西方の女神の星座が、日 本の作物の収穫期のしるしになっていたというのは、 シンパシーを感じます。ちなみにアークトゥルスは 和名を「珊瑚星」といい、二次大戦中外国語使用禁 止令の影響で外国語が使えず、航海に星の天測が必 要だった海軍によって命名されたそうです。旧三級 煙草の「ゴールデンバット」が「金鵜」に名前を変 えられたのと同じです。(コウモリ→鵜になってま すが。)

  麦星や灯を消してある余呉(よご)の駅              (茨木和生)  私はこの俳句を選んだ。  浮かぶ情景として、夜の余呉の湖の近くの駅で、 湖に反射する綺麗な麦星(星座が)見えている情景が 浮かんだ。  私は駅で電車を待っている時間が好きだ。駅のホー ムには様々な職種の人もいるし、年代も幅広い。時 間帯によって人が変化していくのは面白いし、この 俳句のような、自然が豊かで景色がきれいな駅のホー ムはもっと好きだ。この句はきれいな景色を私の頭 の中に浮かべてくれたので、とても好きな句だ。  水産大学校の最寄り駅である吉見駅の情景なども とても好きだ、山陰線の電車の車体もレトロな雰囲 気が出ていて好きだし、海沿いを走るもの景色がき れいで好きだ。  吉見駅で以前(六月)撮った写真を添付します。  この写真で私は 「山陰の 梅雨の装い 天の海」 という俳句を作りました。

:私の好みの句は、茨木和活さんの「麦星や灯を消 してある余呉(よご)の駅」の句です。  理由は、初夏の、夜になってまだ間もないころに 見える牛飼(うしかい)座α星(アルクトゥース) に季節や時間帯を連想させ、余呉の駅からその場所 が滋賀県の最北端に位置する伊香(いか)群余呉町 (現在は長浜市)とわかる。この短い句に季節や時 間帯、場所までも表現していることもあり、その情 景がその場所にいなかったとしても伝わるいい句だ なと感じました。

  麦星や灯を消してある余呉の駅 (茨木和生)  電灯が消えた夜の余呉駅から星を見るとアルクトゥ ルスが際立って明るく見える情景が頭の中にすっと 浮かんできました。  麦は地元でも取れるので麦星は馴染み深く、家に 帰りたくなりました。

    皐月波(さつきなみ)   引いてゆく長きひびきや五月波 ・感想   五月の波が荒いことを詠んでおり情景を想像す  ることができた。

  引いてゆく長きひびきや5月波 (鈴木花蓑)  波打ち際を強い風に吹かれながら歩いている時に、 耳に届く波の音を長く感じてしまう、そんな休日を 過ごしてみたいと思いました。

引 い て ゆ く 長 き ひ ゞ き や 五 月 波  この句を読んだ感想ですが、 裸足で波打ち際に立ち、水平線を眺めながら波の音 を聞いている… というような情景が頭に浮かんできて、いい句だな と思いました。 拙い感想になりましたが、以上です。ありがとうご ざいました。

    皐月波(さつきなみ)   引いてゆく波のひゞきや五月波 (鈴木花蓑)  荒い波の影響でより遠くに水が打ちあがり、水が 海にひいていく音が長くきこえるように変化したこ とから梅雨の訪れを感じていることが読み取れる俳 句でした。また、日本海は台風を除くと10月から 3月ごろにあれることが多く、北海道あたりには梅 雨がないこと、瀬戸内は太平洋側に比べると梅雨の 影響が小さいことから、この俳句は大平洋側で読ま れ たものかもしれないと思いました。

    皐月波 引 い て ゆ く 長 き ひ ゞ き や 五 月 波  夏真っ盛りで辺りの音が小さく聞こえてしまうく らい暑い中、海の波音がかすかに聞こえ、涼しさを 求めたいなあという情景を思い浮かべました。

  引いてゆく長きひゞきや五月波 (感想)梅雨の時期の荒れた天候を上品に表現して   いると思います    以上です。

  引いてゆく   長きひゞきや    五月波 [感想]  五月波と言えば、荒々しい波をイメージしますが 「引きゆく長きひびき」という表現は悲しい、寂し いような感覚をおぼえます。2つのある意味反対な 表現をぶつけて、心の内の複雑さが私には感じられ ました

    皐月波(さつきなみ)   引いてゆく波のひゞきや五月波 (鈴木花蓑)  荒い波の影響でより遠くに水が打ちあがり、水が 海にひいていく音が長くきこえるように変化したこ とから梅雨の訪れを感じていることが読み取れる俳 句でした。また、日本海は台風を除くと10月から 3月ごろにあれることが多く、北海道あたりには梅 雨がないこと、瀬戸内は太平洋側に比べると梅雨の 影響が小さいことから、この俳句は大平洋側で読ま れたものかもしれないと思いました。

引 い て ゆ く 長 き ひ ゞ き や 五 月 波              ( 鈴 木 花 蓑 )  私がこの俳句を選んだのは、ほかの俳句と比べて 共感するところが多かったからです。  以前、一年の中で昼に最も海が引いていくのは、 潮干狩りをよくする5月という言葉を聞いたことが ありました。そのため、波が長く響いているという ところに、一年の中で最も海が引いていくから長く 波の音が響いているのかなと、とても共感しました。 また、この俳句を読んで、海がどんどんと引いてい く情景が、すぐに頭に浮かびました。  それと同時に、梅雨前の日照りで暑い中、海が引 いていき、小さい頃に自分が海を眺めていた様子も 頭に浮かびました。  だから私は、掲載されていたどの俳句よりも共感 できて、さらに、情景が頭に浮かんだ、この俳句を 選びました。

  長崎の 旧街道の 葛饅頭 私がなぜこの俳句を選んだのかというと一番読みや すかったのと、私は長崎が好きで、葛饅頭で夏を連 想し、旧街道を思い出せるからです。

長 崎 の 旧 街 道 の 葛 饅 頭           ( 有 馬 朗 人 )  私は長崎出身なので、古く歴史の残る建物が並ぶ 旧街道の風景が思い出されてとても懐かしくおもい ました。

  長崎の旧街道の葛饅頭 (有馬朗人) 感想:  他の句と比較したときに1度見ただけで情景が読 み取りやすかった。葛饅頭が季語であり、夏をイメー ジすることができた。また、旧街道という表現によっ て、昔に作られ、古い町並みが残っている細い道を 想像させた。旅の途中、近くの店に立ち寄ってベン チに腰かけながらよく冷えた葛饅頭を食べるのはと てもおいしいだろうなと思った。

  長崎の旧街道の葛饅頭(有馬朗人)  とても美味しそうでかってみたいと思う。

  長崎の旧街道の葛饅頭 感想:地元が長崎で長崎の街道を思い出すことができ る俳句だったので、良いなと思いました。

   葛 饅 頭 ( く ず ま ん ぢ ゆ う ) 長 崎 の 旧 街 道 の 葛 饅 頭           ( 有 馬 朗 人 ) なぜこの句を選んだのかそれは、読みやすく、内容 がすっと頭の中に入ってきたからだ。この句を詠む と、頭の中に旧街道上にある茶屋で一人葛饅頭を食 べて涼んでいる自分を想像してしまい、なんだか懐 かしい気分になった。

「長崎の旧街道の葛饅頭」 有馬朗人  長崎の、旧街道の、葛饅頭。やけにリズム感がよ く、かえって違和感を感じてしまった、というのが 初めの感想である。この句を素直に読めば、長崎の 旧街道にて作者が葛饅頭を食べたということになる が、なぜ今回の課題にこの句が掲載されたのか、きっ と何か別の評価すべき美しい点があるはずなのだ。 いや、ないかもしれない。自身の妄想も交えつつ考 察していきたい。  長崎街道。それは鎖国が行われた江戸時代に唯一 外国との貿易窓口を設けていた長崎と江戸とをつな ぐ極めて重要な役割を持つ道路であった。旧街道と いう表現を用いていることからこの句が書かれたの は江戸時代ではないと推測できる。現在でも当時の 街並みが残っている箇所が多くあり、身近に異国の 香りを楽しむことができるらしい。ここからは私の 妄想になるが、作者は旧街道を旅することにより鎖 国当時の日本の雰囲気を感じ、ここで一句!という エモーショナルな気分になったのではないだろうか。 しかしここからが謎なのだ。作者はなぜカステラで はなく葛饅頭を食べたのか。暑かったからなのか。 透き通る葛の中に包まれたあんこと海に守られた江 戸の日本を重ねてみたのか。真相はいかに。

  長崎の 旧街道の 葛饅頭 有馬朗人  この句を詠むと1年の後期試験が終わってすぐに 九州を鉄道を使い3日で一周したが、長崎県では佐 世保市で佐世保バーガーを食べたが長崎市では平和 の像を見ただけで何も食べなかったのであの時買っ て食べればよかったと後悔してしまい、今度長崎に 行く時は買ってみようと思った。

選んだ句;長崎の旧街道の葛饅頭 感想;長崎の名物である葛饅頭を句の中に入れるこ  とで長崎への郷土愛を感じることができすてきだ  なと思いました。

〈好きな句〉 長崎の旧街道の葛饅頭 〈感想〉  ウイルスの影響で、週に1度の登校と週末のバイ トでしか外出する機会はないものの、洗濯物を干す ときに外気に触れ、夏らしい暑さになってきたなと 日々思うようなってきた。バイトの制服も夏服が支 給され、私服も衣替えをし、布団も夏用に変えた。  衣食住すべてが夏仕様にナッテきている。ご飯で は夏野菜を取り入れるようになり、デザートは水饅 頭についつい目がいってしまう。  この俳句でも葛饅頭が登場し、その見た目からも 清涼感が感じられる。加えて、かき氷などではなく 葛饅頭を使うところが、饅頭の艶っぽさを活かし、 夏らしさだけでなく、6月の梅雨の始まりの濡れた 雰囲気も感じさせる、とても魅力的に感じた。また、 旧街道というところが、日本ならではである和菓子 と昔の街並みと良く合い素敵だと思った。

鰭( ひ れ )焦 げ て 岩 魚 し づ め り     岩 魚 酒 ( 水 原 秋 櫻 子 )  この句を詠んで北原さんが岩魚を焼き魚と酒にし ておいしくいただいている楽しい光景が浮かんでき てとても微笑ましい気分になりました。

  鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 (水原秋櫻子)  夏の季語である岩魚を用いていて、熱い夏に川ぞ いで岩魚を釣って炭火で焼いて食べ冷えた酒に岩魚 の鰭を入れ最後までおいしく食べている情景が思い 浮かび自分も昔川で釣った魚を家族で食べたのを思 い出しなつかしく思えた。

  鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 (水原秋櫻子)  骨酒の作り方と結びつけてあって美味しそう。

  鰭焦げて 岩魚しづめり 岩魚酒  岩魚の季語としての働きを調べると、三夏、(立 夏から立秋までの3ヶ月間)のことを示す季語とい う記述があったが、確かにイワナは夏に活発に動き 回り餌を食べ、活きいきとしているイメージを想像 できる。  昔、祖父と岩魚釣りをした後に、こうすると旨い と言って、祖父が焦げ目を入れた岩魚を日本酒の中 に浸けていた様子が思い浮かべられる。

  鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 (水原秋櫻子) 感想  まずこの俳句を選んだ理由は、読むとその情景が イメージできたからだ。鰭が焦げるぐらいのちょう ど良い焼き加減の岩魚を酒に沈め、岩魚酒にしてあ おぐという一連の流れをイメージした。  この俳句を読み、最初に思ったのは「自分も食べ てみたい」という気持ちだ。6月頃は岩魚釣りのベ ストシーズンでもあり、旬の岩魚を焼き酒につけて 飲むイメージをして、とても羨ましく思った。また この俳句の季語は岩魚であるが、魚の名前だけで季 語になりうることを初めて知りとても驚いた。季語 は夏の海や、梅雨と言った直接的な言葉だけだと思っ ていたが、季節を連想する言葉は季語になることが わかった。

  鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 (水原秋櫻子) <感想>    言葉巧みに5・7・5で岩魚酒造りの要所を   まとめていてこの俳句を詠めば作り方を知って   ない人でも粗方手順が分かるので素晴らしいと   思いました。

  鰭焦げて岩魚しずめり岩魚酒     杏子 感想  杏子さんは岩魚酒の鰭を焦がしてお酒に岩魚のだ しがお酒に浸透しているのを待っているのか、はた また杏さんの心が岩魚のようにしづんでいっている のか一つだけ言えることがある。  それは、岩魚酒はおいしいに違いないということ。       (編者)この俳句の作者は水原秋櫻子先生で、杏子は         次の俳句の季語です。

選択した詩:岩魚   鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 感想:この詩は骨とお頭だけになったイワナを鰭が  焦げるまで再びあぶって、日本酒の中に沈めてい  る風勢のある光景がパッと目に浮かびます。   しかし、ただこれだけではないと思います私は、  この詩の背景には「恋に焦がれていること悟られ  ないようにしていても、この岩魚酒に沈んだ岩魚  のように見透かされてしまうものですね。」とい  う作者の感情が隠れていると思います。

鰭 ( ひ れ ) 焦 げ て 岩 魚 し づ め り         岩 魚 酒 ( 水 原 秋 櫻 子 ) ・感想  あくまで自分が想像したものですが夏に旬のイワ ナをとり、森の涼しい川辺で焼いて食べた後、骨を 焼き岩魚酒にして飲んでいる姿を想像すると、今で いうキャンプでバーベキューをしているように感じ て、とても楽しそうだと思ったからです。

鰭 ( ひ れ ) 焦 げ て 岩 魚 し づ め り        岩 魚 酒 ( 水 原 秋 櫻 子 ) 感想  岩魚でお酒を造って楽しく飲んでいる情景が浮か びます。

鰭 ( ひ れ ) 焦 げ て 岩 魚 し づ め り        岩 魚 酒 ( 水 原 秋 櫻 子 ) 感想  イワナを焼いてさあ今から酒と一緒に食べるぞと いった情景が浮かんできて、とても美味しそうで良 いなと思いました。

鰭 焦 げ て 岩 魚 し づ め り 岩 魚 酒           ( 水 原 秋 櫻 子) (感想)岩魚しずめてその時にただようニオイが情  景として一番印象深い。そしてそれをニオイなが  ら呑むお酒がカッコイイ

好きな句:鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒                (水原秋櫻子) 感想:今が旬の岩魚、そんな岩魚を岩魚酒にするた  めによく焼く。よく焼かないと生臭くなってしま  うからだ。鰭が焦げるほどよく焼いた岩魚からは  香ばしい良い香りがする、その岩魚に日本酒を注  いでいくとうっすらと美しい黄金色のお酒になっ  ていく。   そんな岩魚酒の香りや色が文字越しに伝わって  きました。「魚とお酒」といえばフグの鰭酒が有  名だと思いますが、岩魚酒も一度は味わってみた  いです。

  鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 感想  作者は岩魚を釣り、鰭や骨まで焼酎に入れて山々 の風景を楽しんでいたのではないかっと勝手に想像 してしまいました。たったのこれだけの句であって も、物事の趣深さがしっかりと伝わってきて、お酒 を飲みたくなる句だと感じました。  作者のリラックスしているような風景が想像でき てとても面白いと思いました。

  鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 (水原秋櫻子)  私は未だ未成年なので酒を飲むことは出来ません が骨酒を嗜む事は成人してからやってみたい事の1 つです。この俳句を読むと具体的な岩魚酒の様子が 頭に浮かんできて一体どんな味なんだろうか、など と妄想が広がります。

汐 よ し と う な づ き て 出 ( い ) づ         い さ き 船 感想:まさに6月ははイサキの旬の時期でなので6  月を感じられるいい俳句だなと思いました。

  いさき 汐 よ し と う な づ き て 出 ( い ) づ          い さ き 船 イサキは夏の季語で海が荒れやすい季節に海の状況 を確認しつついさき漁に出ようとしている、そのよ うな情景が思い浮かびました

汐 よ し と う な づ き て 出 ( い ) づ      い さ き 船 ( 松 崎 鉄 之 介 )  いさき船と汐(潮)よしとうなづきての言葉から、 夏に漁師が潮を確認し、いさき漁に出ようとしてい る様子がうかがえる作品であると考えます。

「汐 よ し と う な づ き て 出 ( い ) づ           い さ き 船」 [感想]この句を読んだときに地元にいたときに祖父  と天気に潮の満ち引きや波の高さといった情景を  思い出しました。この句のように条件がよければ  船を出すことができるためとてもわくわくした感  じが伝わってきます。きっとこれは今から楽しも  うといった希望のようなものが感じる句だなと僕  は思いました。

   いさき 汐 よ し と う な づ き て 出 ( い ) づ       い さ き 船 ( 松 崎 鉄 之 介 )  この俳句を聞いてイサキは今が産卵期に当たるの で、すごく時期的にあっている俳句だと感じました。 また、この時期は梅雨に当たるので、潮も安定しな いため汐よしとうなづく様子に嬉しさを感じられま す。以上の理由からこの俳句が一番好きです。私も 一つ作ってみました。    あゆ   水 無 月 の キ ュ ウ リ の か ほ り      香 魚 か な

  あんずあまさうなひとはねむさうな              <室生犀星>  意味:杏は甘そうに実っていて、人は眠たそうにし ている  杏は、6月頃に実るものだ。6月頃に雨で外に出ら れなく、家でゆっくりしている(眠たそうにしてい る)様子が伺えた。今とあまり変わらない日常的な 風景が思い浮かぶ。

  あんずあまさうなひとはねむさうな               (室生犀星)  6月は日本では梅雨の時期で、雨の日が多く、雨 の日が多いということは低気圧の日が多いというこ と。人は気圧の変化に敏感で、低気圧になると眠気 を覚える人は多い。また、杏子の旬は6月である。 どこにでもありそうな日常の一こまを切り取ったよ うなシンプルなものなのに、場面は6月であるとはっ きりわかることがこの詩の魅力なのではないかと感 じた。

    杏子(あんず)  あんずあまさうなひとはねむさうな (室生犀星) →感想:あんずあまさうなとは、甘そうな杏子であり、 ひとはねむさうなとは、人が眠そうにしている、す なわち楽しかった夏休みの思い出に陶酔している様 子を描写しているように思えた。

    杏子 ( あ ん ず ) あ ん ず あ ま さ う な  ひ と は ね む さ う な ( 室 生 犀 星 ) 感想  まず、この句の季語は「あんず」で、夏の季語と なっています。  私がこの俳句から「あんず」と「ひと」の様子が 「さうな」に続いているのでリズムが良いと感じま した。またあんずが甘そうであること、ひとの眠た そうであることから、晴れた夏空の下をゆったりと 優雅に飛ぶ鳥の目線で詠まれた句のようにも感じま した。文字にすべてひらがなを用いることで、柔ら かくゆったりとした句である印象を与えていると思 います。  一方で先ほど私はリズムが良いと書きましたが、 この句は16音であるため1音足りない字足らずで詠 まれています。俳句は575の17音が基本形です。 なぜ16音で詠んだのか疑問に思いました。「あんず はあまそうなひとはねむそうな」の17音で詠むこと もできたはずです。私は17音のほうがさらにリズム が良くなると思っています。なぜ16音で書いたのか 作者の意図がとても気になりました。

「あんずあまさうなひとはねむさうな」  杏子が熟して赤味が帯びてくる6月頃、庭先の甘 そうな杏子と、のんびり軒下でくつろいでいる人の 情景が浮かぶ。すべてひらがなで書かれていたり、 「あまさうな」と「ねむさうな」で韻を踏んでいた りと、筆者のユーモアのある表現に和みました。

  あんずあまさうなひとはねむさうな  全文がひがなで書かれていて、ふんわりした印象 がかわいくて目に留まったから。あと、友達の杏ちゃ んを思い出したから。

  どの国の時計に似たる時計草 (後藤比奈夫)  私はこの詩を詠んだ作者が「どこの国の時計を見 て時計草と名付けたんだよ!こんな時計見たこと ねぇーよ!」と皮肉が入ったように読めて、本当に そうだなぁと思いました。私が小学生の頃、母がガー デニングに凝った時期があったのですが、その時に 時計草を植えていました。夏ぐらいにツルにいっぱ い花が咲いて初めて花を見たときに、綺麗というよ りかはちょっと気持ち悪くて怖かったのでまじまじ と見れませんでした。時計草に苦い思い出があった ので名前について考えたことがなかったこともあり、 そう言われればそうだなぁというような気持ちにな りました。

  どの国の時計に似たる時計草  時計草という季語を使って時期によって咲いてい る場所が異なると感じました。

  どの国の時計に似たる時計算 (後藤比奈夫)  時計草の持つ季語以外のイメージを対比させてい るように思えた・

  どの国の時計に似たる時計草  どんな場所でも時計の形がほとんど一緒だという ことが時計草の形からわかる。  時差があって、どこにいても時間はみんな平等で あるため効率的な時間の使い方をしたいと思う。

      時 計 草      ど の 国 の 時 計 に 似 た る 時 計 草          ( 後 藤 比 奈 夫 ) 感想  世界中のどこの時計でも、時計草のようの形をし ており、世界は一つだということを表しているよう に感じた。

  どの国の時計に似たる時計草 感想  時間の進み方は、全世界共通で世界中の人がその 時間を共有している。  しかしそれ以外の文化や考え方は共有できていな い。ましてや国が違うだけで戦争や紛争が起きてい る。私が見ているこの時計草は、必死に生きている。 そしてまるで現代の社会を笑っているようだ。同時 に筆者は、残された時間をどのように使うのか?今 この瞬間、世界中の人々は、それぞれの考え方で行 動している。私は、残された時間をどのように使用 すれば、後悔のない生き方をできるのか?時計草を 時計に見立てて真剣に今後の事について考え、そし て時計草がその悩みを聞いているようだ。時には、 余裕を持つと普段は見えていない発見があり、考え させられることがあるかもしれない。

  どの国の時計に似たる時計草 (後藤比奈夫)  時計草について想像でき、確かに時計はどの国も 共通なのでとても好みです。

  どの国の 時計に似たる 時計草  一番意味が分かりやすかったです。時計草はどん なものかと思って調べたら本当に時計のような花で 驚きました。

「どの国の時計に似たる時計草」  時計に似た時計草という植物、世界中に数ある時 計のどれに似ているのだろうかと考えてみてもわか ない。作者が時計草を見て時間を忘れてまで、無心 に時計草に似た時計を探しているような様子がうか がえる。私も意味のないようなことを、夢中になっ て考えてしまうことがあるので、作者に共感を感じ た。

選んだ句「どの国の時計に似たる時計草」 感想 世界にたくさんあり、それぞれ違う美しさが  ある時計の「花」と時計草の美しさを比較してい  てとても面白いと思った。

    時計草   どの国の時計に似たる時計草 (後藤比奈夫) 感想 ・この俳句は、ある朝、散歩をしているときに時計 草を見つけて詠んだ俳句だと私は感じた。この時計 草はどの国の時計にも似ていることから、時の流れ は地球上のどこでも変わらないということを時計草 が言っているように感じた。とても奥深い俳句だと 感じた。

好きな句 『どの国の 時計に似たる 時計草』 感想  私の生まれ故郷奄美大島は、時計草が盛んに栽培 されており島の特産品の一つにもなっている。私も 一時期時計草を育てていた時があり、受粉作業をし ているときに時計草の花を見たことがあった。その 時に親に「時計草の花が時計に似てるから、時計草 と呼ばれるようになった」という話を聞き、私自身 「この花のどこが時計に似ているのだろう。」とい う疑問を抱いた。  この句を見て、その時の自分の気持ちを思い出す と共に、やはり先人にも同じ疑問を抱く人がいたの だと、少しだけ嬉しくなった。

  どの国の時計に似たる時計草  この俳句を読み、時計草とは何かを調べてみたと ころ、夏の植物を表す季語ということがわかった。  この俳句は、時計草と名前に時計が入っているが どの国にも時計草に似た時計はないと言う疑問が述 べられているのでわないかと思った。

俳句:どの国の時計に似たる時計草 (後藤比奈夫) 感想:時計草に様々な柄があるように国にも様々な  文化があるという気持ちを込めたのではないかと  思いました。

好きな句1つ目: 鰭焦げて岩魚しづめり岩魚酒 感想: 岩魚は夏を表す季語であり、岩魚の香りを  つけて岩魚酒として岩魚の風味を味わうことがで  きて、夏の日本固有の伝統文化も同時に味わって  いるような気分になった。 好きな句2つ目: 六月の太平洋と早起きす 感想: 朝方に急に空が明るくなり朝日とともに飛  び起きたという状況が想像できて、自分も一度は  俳句の状況そのものになって朝日とともに早起き  してみたいと思った。

 

【第2回目俳句感想文】
  芒 種 け ふ 半 月 に し て 瑞 々 し            ( 古 賀 ま り 子 )  芒種とはイネや麦などの穂先にある針状の突起物 のことで、陽暦の6月6日をあらわしています。つま り、「芒種のある作物をもみまきする季節」という 意味です。せわしなく働く農家と、梅雨の気配を色 濃くし始める天気が、瑞々しい雰囲気を作り出して います。

  芒種けふ半月にして瑞々し 感想 月が見えた欣幸と美しい情景を絶妙に表現し ていると思います。

田 植 時   瀬 戸 走 る 潮 が 強 し 田 植 時            ( 茨 木 和 生 )  瀬戸を走る潮が強くなる時期に田植えをする。で は、きっと今頃瀬戸を走る潮は強くなっているのだ ろう。瀬戸には行ったことがないので、行ってみた くなった

  瀬戸走る潮が強し田植時  田植えの時期は、瀬戸内海の潮流が強くなるとい う、田植えとはあまり関係が無さそうな事項を結び つけているのがいいと思った。

  瀬戸走る潮(うしお)が強し田植時(茨木和生) 感想   私は田植の経験がほとんどなく海の近くに住ん  だこともなかったので、海の近くに住んでいる人  は潮の強さで田植時だと感じているのだなと興味  をもちました。また、潮が強いのを感じ、またこ  の時期が来たんだなあと日本の四季をしみじみと  感じている人の情景が思い浮かびました。

  瀬 戸 走 る 潮 ( う し お ) が 強 し 田 植 時 私は奄美大島で黒米作りのサークルに参加しており、 その田んぼは海岸から100mも離れておらず、田 んぼ作業の時は波のせせらぎが聞こえていました。  田植えや稲刈りの時には、多く人が集まり、波の せせらぎを聞きながら奄美の労働歌を歌いながら楽 しく作業をしたのを思い出しました。

入梅(にふばい)   梅雨に入(い)る気持ち両生類になる (平千枝子)  普通であれば体が濡れることが多くなった梅雨に 嫌悪感を抱くところを、自分が両生類になったこと でそれが普通のことだと思うようにするという前向 きな姿勢に梅雨の印象が少し和らいだ気がします。

好きな句   梅雨に入る気持ち両生類になる。 感想   梅雨に入ると蒸し暑く、時には体に大粒の雨が  あたり、ビショビショに濡れてしまう。   そんな時に両生類のようになったつもりになれ  ば、そんな梅雨を乗り越えることができる。   そんな気持ちが感じられる句である。

  梅雨に入(い)る気持ち両生類になる  私はこの俳句を選びました。  私は梅雨が好きです。梅雨が来ると、夏が来た感 じがするからです。梅雨のじめじめした気候も、さ ほどいやではなく、この俳句のように両生類のよう になりたいと少し思ったことああるので、この句に 共感し、この俳句を選びました。

  梅雨に入る気持ち両生類になる  水中と陸で過ごす両生類、雨が多いこの時期はジ メジメしていて水中にいるようで陸にいるというま さに人間も両生類のような立場に立たされているよ う

  梅雨入(い)る気持ち両生類になる  平千枝子  私はこの詩の「両生類になる」の部分が印象的に 思いました。特に語尾の「になる」が特徴的で、も しこの詩が「梅雨入る気持ち両生類」と終わってい たら、梅雨入りを両生類と同じような楽しみな気持 ちなんだと内容が入ってきそうですが、「になる」 がつくとなんだか決心したように聞こえて、あえて、 この時期を楽しもうという風に読み取ることができ ました。梅雨入りを迎える作者のポジテブな意気込 みやそれを両生類に例える遊び心が感じられる詩だ と思いました。

  梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子)  5月までのからりと天気の良く過ごしやすい日々 が、梅雨に入ると一転し、両生類のように肌に水の 層がまとわりつくようなじめっとした日常に変わる ことを思い出させてくれました。  梅雨が早く終わって欲しいです。

  梅雨に入(い)る気持ち両生類になる                 (平千枝子)  梅雨に入り、まるで水の中にいるように思う。そ して気が滅入り、人ならざるもののように、思考は 鈍化し、水底から空を眺め、腹を満たすだけの無味 乾燥な日々を送る。そして梅雨明けに、日の下に体 を晒すことで、人に戻る。この場合では水から陸に 上がる両生類にそれを例えているのかもしれないと 思う。

  梅雨に入る気持ち両生類になる 感想:梅雨になると両生類の中でもカエルの鳴き声  が聞こえてきます。その鳴き声を聞くことで梅雨  の訪れを感じます。

  梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子)  梅雨の期間にはいるというのは、春夏秋冬はっき りと季節が変わるわけではないけれど、両生類が変 態し、姿がかわるように、季節の変わり目を感じる。 また反対に、「梅雨に入る気持ち」とはっきり告げ ていることから、季節の変わり目がはっきりしなく 落ち着かない様子も伝わってくる。

  梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子)  この俳句を読むと梅雨の雨で外出ができなくても 両生類の気持ちになると梅雨の雨でも楽しく感じる ルコとかできると思いました

  梅 雨 に 入 ( い ) る      気 持 ち 両 生 類 に な る  この句は、多くのひとが嫌う梅雨を両生類目線で 見ることによって、梅雨を良い風にとらえていると 思う。実際にわたしは雨が好きで梅雨も好きだから この句はよく感じる。

梅 雨 に 入 ( い ) る 気 持 ち 両 生 類 に な る ( 平 千 枝 子 )  自分はカエルみたいに雨に打たれたくはないが、 カエルみたいに気持ちよく泳ぎたいので、早くプー ルに入りたい。

梅 雨 に 入 ( い ) る 気 持 ち 両 生 類 に な る              ( 平 千 枝 子 ) 感想 ・梅雨は雨ばかりの日が続き自分たちは水の中に入っ  ているような気分になったり、ときおりの晴れの  日には水から上がって外に出たり、水陸どちらも  生きれる両生類のような気持ちになるという風に  この句から感じることができました。

梅雨に入(い)る気持ち両生類になる (平千枝子)  ・梅雨と聞くとあまり良い気分にはなりませんで   したが、この句は両生類の気持ちになることで   梅雨でも楽しめるような感じがして、おもしろ   いと思った。

  梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子)  梅雨に入るとやはり、雨が降ることも多くじめじ めした日ばかりで、まるで湿地にいるような気分に なる。両生類であれば、こういったじめじめした季 節は気持ちがよく過ごしやすいのだろうと考える。 もし自分がカエルであれば梅雨になれば喜んでゲロ ゲロないて梅雨の訪れを祝うのだろうなと考えた。

  梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子)  私がこの俳句を選択した理由は、梅雨入りし、高 い湿気を感じることはあれども、そこから両生類に なるという考え方はなく、作者の考えに強く感動し たからだ。この俳句に出会う前の私は、梅雨の時期 のまとわりつく湿気は鬱陶しいものでしかなく、な かなか他の観点から考えることはしなかった。しか し、両生類にとって梅雨の季節はとても素晴らしい 瞬間になる。この俳句を通して、梅雨という今まで 好きではなかったものを好きになれた気がした。ま た、ある観点からは否定的なものであっても少し見 方を変えるだけで全く違うものとしてとらえられる ことの大切さに気付かされた。

好きな句「梅雨入る気持ち両生類になる」     感想 梅雨の時期になり、雨が多くジメジ メする季節でも対応して頑張るという気持ちがかん じられる

〈好きな句〉   梅雨に入る気持ち両生類になる 〈感想〉  下関も今週から梅雨入りと言われている。私は雨 が大嫌いなのでこの季節は大嫌いだが、家の周りが 田んぼで囲まれている私の家には、夕方くらいから カエルの鳴き声がずっと聞こえてくるようになった まるで、待ちに待った季節がやってきて喜んでいる ようだ。地元ではカエルに触れ合うこともなかった ため見た目が苦手だが、ドアにくっついている小さ なカエルをみてついついよかったねと言ってしまう こともある。  まだ下関に来て1年しか経っていないが、カエル の気持ちが少しずつよくわかるようになった。

選んだ俳句:梅雨に入る気持ち両生類になる 感想:この俳句中に使われた「両生類」について、  これは梅雨時期に水中にいるかのような気持ちに  なり、雨が多いことを表していると考えました。  これが本当にこの意味で使われていたとするのな  ら、上手で面白い表現だと思いました。

選んだ句;梅雨に入る気持ち両生類になる 感想;梅雨時は雨が多く雨に濡れる機会も多いので  カエルのような両生類になったような気持ちにな  るという気持ちがよくわかりました。

梅雨に入(い)る気持ち両生類になる (平千枝子) ・私は梅雨は薄暗くじめじめしたマイナスのイメー  ジを持ちがちですが、この句の作者は梅雨という  ものを純粋にとらえカエルなどの両生類の様に身  体が自然と一体化していっているような感覚になっ  ている独特な世界観を感じ取ることができました。

梅 雨 に 入 ( い ) る 気 持 ち 両 生 類 に な る                ( 平 千 枝 子 )  私が下関にやってきてからもうすぐ3か月が経と うとしているが、この地の雨の日の少なさにはとて も驚いている。こんなに晴れの続く場所が日本にあっ たのか。毎日釣りに行けるし洗濯物も直ぐに乾く。 私はこの気候がとても気に入っている。しかしそん な下関にもとうとう梅雨が来た。ちょうどいい。そ ろそろ青空に飽きが来ていたころだ。  作者は梅雨入りの際に両生類の気分を味わった。 体全体に雨の水分を感じて。両生類は常に体表が濡 れていないと皮膚呼吸が出来ずに死んでしまう。そ んな彼らにとって梅雨は最高の季節といえる。作者 は梅雨が好きなのだろうか。それとも今の私のよう に久しぶりの雨にわけもなく心躍らせているだけな のか。

選んだ句:梅 雨 に 入 ( い ) る    気 持 ち 両 生 類 に な る( 平 千 枝 子 ) 感想:梅雨というとちょうど今の季節だと思い、こ  の句を選びました。雨と触れる機会が増えること  で、両生類は常に水に触れているのだと感じた筆  者の気持ちがよく分かります。また魚ではなく両  生類というワードを選んでいることから陸で暮ら  す人間とも関係性を見出しているのだと感じまし  た。

「梅雨に入る気持ち両生類になる」  雨の日が続き、湿度が上がってきた中、両生類た ちが元気に活動するのを見て、梅雨入りに両生類の 気持ちになって適応するのを感じた

  梅雨に入る気持ち両生類になる 私はこの句を読んで、梅雨入りする6月上旬の田ん ぼには水がはっており、田植えで田んぼに入ったと き、そこには多くのオタマジャクシがおり、両者が 今の時期に水のはった田んぼに入ることができるの で何か共感することがある俳句だと感じた。

梅 雨 に 入 ( い ) る 気 持 ち 両 生 類 に な る             ( 平 千 枝 子 ) 感想文: 6月に入り梅雨入りし頻繁な気候変動、  雨でぬれ湿気でじめじめしたり憂鬱になる時期だ  が、外ではカエルの鳴き声が聞こえカエルにとっ  ては居心地のいい時期なんだとこの俳句を詠んで  思った。雨がこれほど長く続く時期も珍しいので  私も両生類になったような心持ちでこの時期を楽  しもうと思う

  梅雨に入る気持ち両生類になる  この詩を読んで、雨に濡れる自分が雨にうたれな がら水辺を泳ぐオオサンショウウオと重なって見え た。

入梅   梅雨に入(い)る気持ち両生類になる                (平千枝子) 感想:私は作品の中の両生類をカエルの一種と考え  ました。それを踏まえて「梅雨」と「両生類」と  いう単語から梅雨の雨が降ろうとする中カエルが  雨に反応するかのように「グエッグエッグエッ」  と鳴いてあたかも喜んでいる風景が思い浮かびま  した。そして「両生類になる」という部分から作  者も雨に対してカエルと同じように喜びを感じて  いるのだろうと思いました。

  梅雨に入る気持ち両生類になる  梅雨の時期になると雨が一日中降る日が多くなり、 なんだか空気が湿っぽくなり冷たくなる事を、水辺 でじっとしている両生類を強く連想でき、涼しげで 気持ちのいい句だと思いました。

  梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子)  自分の気持ちを両生類に例えるほど梅雨に入るこ とを待ち望んでいたと思いました。

句「梅雨に入る気持ち両生類になる」  梅雨に入り夏がはやく来てほしいという思いを私 は持ったが、作者はそうではなく、雨や水を好む両 生類のように梅雨を楽しもうとする思いを感じた。 また、両生類の気持ちになることで、雨という恵み に感謝する心を持てるようになると思った。

  梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子) 感想:梅雨になり雨がたくさん降るのは自分からし  たら嫌なことだが、両生類の気持ちになれば梅雨  を楽しめそうな気がした。

入梅(にふばい) 梅雨に入る気持ち両生類になる (平千枝子) 感想:梅雨の時期というのは湿度が非常に高くなり ます。そのせいで空間の水分が非常に多くなり、人 体が生乾きのような状態になってしまいます。それ を普段から陸上と水中で生活するせいで体が生乾き の両生類とかけていて面白いと思いました。

 僕は”梅雨に入る気持ち両生類になる”という句が 気に入りました。  両生類という表現をすることで、梅雨の時期の全 身にまとわりつくようなジメジメとした空気感が鮮 明に伝わってきたからです。

梅 雨 に 入 ( い ) る 気 持 ち 両 生 類 に な る 感想:地上と水中の両方を生きれる両生類と梅雨時 の人間を同一視しているところが面白いと思いまし た。

【選んだ俳句】   梅雨に入る気持ち両生類になる  平千枝子 【感想】  梅雨に入り、雨が多くなった季節のじめじめとし た日々を思わせる俳句だと思いました。梅雨と聞く と、湿気で湿った髪の毛、なかなか乾かない服、葉っ ぱの陰にいるカエルなどの情景が次から次へと思い 浮かびます。そうしていると、雨が多くなり洗濯が 面倒になる気持ち、外出する時に傘を持たないとい けなくなりイライラする気持ちなどもしてきます。 梅雨という言葉だけで、様々なことを想像できるの は日本人の証のように感じられました。  また『気持ち両生類になる』という表現は共感し やすく、面白い表現だと思いました。梅雨に入り生 活していると、どこにいても湿っていて、まるで水 場の近くにいるような感じがしてきて気持ちまでカ エルのような気持ちになる。この感覚は、梅雨を経 験した者は共感できるものだと思います。言葉を選 ぶことで、ここまで豊かな表現になることに驚きま した。

 私が気に入った句は ・梅 雨 に 入 ( い ) る 気 持 ち 両 生 類 に な る                ( 平 千 枝 子 ) という句です。  正直、筆者がどういう気持ちで「両生類になる」 と書いたのか、またそれがどういう意味なのか私に は見当がつきません。でも、私の梅雨入りするとき の何とも言えない気持ちを上手く表しているようで 良いと思ったので選択しました。

  梅雨に入る気持ち両生類になる  梅雨の雨のせいで気持ちまでじめじめした私たち をじめじめした環境で暮らす両生類の様だととうま くかけて表現していると思いました。早くこのじめ じめした中を抜けて晴れた清々しい空を見たいです。

  梅雨に入る気持ち両生類になる  昨日から九州北部も梅雨入りしたというニュース を見た。学校での実習を行うために海洋機械の実習 服を着て雨の中歩いて20分ほどかけて行った。この 句のように受け入れる気持ちにはなれず今後もこの ようなじめじめした環境での通学が増えるのかと思 うと少しうんざりしてしまった。この句を見習って 物事を肯定的に受け入れたいと思った。

  梅雨に入る気持ち両生類になる  梅雨になってじめじめした中で暮らす私たちはま るで両生類のようだと表した俳句で、梅雨の雨のせ いで気持ちまでじめじめした私たちをうまく表現し ていると思いました。

入梅   梅雨に入る気持ち両生類になる 感想   毎年、梅雨に入ると雨、つまり水と常に共存し  てる気分になる。これが両生類の気持ちと似てる  のかと思う。梅雨は1年で1番不思議な気持ちにな  る。

  鶏鳴(けいめい)に      木菟(ずく)なきわたり明易き(原石鼎) 感想  解釈違いかもしれないが、フクロウが鳴く間も無 く鶏が鳴き始めるところに夏の夜の短さ、朝の早さ を感じた。私の場合は夜更かしした後に布団に入る 時、カラスが鳴きカブのエンジン音が聞こえると朝 が来てしまったことを痛感する。

  鶏鳴に木菟なきわたり明易き (原石鼎)  この句は新しい何かの訪れを表現しているように 感じました。  鶏鳴と木菟が縁語になっていてそれぞれ掛詞となっ ています。「ケイメイ」は鶏鳴と啓明の二つから成っ ていて、鶏鳴は「神話」で始まりの象徴として鶏が 鳴くことを意味し、啓明はある一点で光輝く明けの 明星のようなものを表しています。「ズク」は木菟 と尽無しの二つのから成っていて、木菟は「日本書 紀」で仁徳天皇ともに現れたフクロウを意味し、尽 無しは明けてから役に立たなくなってしまったもの を表しています。ここでケイメイとズクでは一部の 意味で対比の構造となっていることが分かります。  次に「なきわたり」の部分からは、鳴き渡りとい う漢字を当てて、鳥が鳴きながら飛んでいく様を表 し、音の表現と併せて何かがある一点から広がって それも急激に早く広がっていくことが読み取れます。 技巧としては、ずく“なき“となきの部分で重ねられ ていることが分かります。  最後に「明易き」という部分では、夜明けが早く 感じることを意味して前述の広がる早さを強調して 締めくくっています。  作者が何を想像してこの句を詠んだのかは文脈に 依存するので読み取れませんでしたが、このように 一つの句にとても沢山の表現技法が奇跡的な配置で 重なり、緻密に意図を配置できる技巧面に特に惹か れます。

  飼 い 猫 に 噛 ま れ し 夢 の 明 や す し              ( 石 田 栄 子)  情景が想像し易くて、夢を見ていたのに起こされ たところが少し笑えるような俳句だと思いました。 猫に噛まれるとゆう和むようで、夢から覚める絶望 感が好きになりました。

 あまりよくわからなかった   飼い猫に噛まれし夢の明やすし (石田栄子)  今日のも、この俳句が一番意味が理解しやすかっ た季語には明けやすしが使われ、おそらく夏を表し ているというところまではわかったが、それ以上は わからなかった。

「飼い猫に噛まれし夢の明けやすし」  僕は、この俳句を見て飼い猫にかまれていきなり 起こされたように夏に向かっていくと夜が短くなる ため寝てもすぐに起きてしまい夢の途中に起きてし まうということを表していると感じた。夏になると 早朝から外が明るくなって起きてしまうということ がよく理解でき、夢ももっと見ていたいと共感する 部分があったためこの句が目に留まりました。そし て、猫に噛まれるといった表現もとても面白いと感 じた。

  飼い猫に噛まれし夢の明けやすし 感想 自分も猫を飼っていて、何回か猫に噛まれる  経験をしたことがあります。そこそこ痛いので確  かに夢もすぐ覚めちゃうかもなと感じました。

  飼 い 猫 に 噛 ま れ し 夢 の 明 や す し  昼寝をしていると、飼い猫に噛まれてハッと目が 覚め、猫を撫でる…という微笑ましい光景が浮かん でくる句だと思いました。

  飼い猫に噛まれし夢の明けやすし (石田栄子)  数年前の夏昼寝をしていて、飼い猫に甘噛みされ 起きてしまった。とても幸せな夢をみていた記憶が あるが内容が何か思い出せないし、途中で起きてし まったため事の顛末が分からないままな夢だった。 この句をよみふと数年前のことを思い出したため、 選択した。

  飼い猫に噛まれし夢の明けやすし  夜が明けて猫に起こされることによって目が覚め る(明ける)ことと、夏至に近づいて夜が短いこと によって夢が少ししか見れずに目が覚めて(明けて) しまう2つの意味がかけられていることで、想像が 膨らんだ。

  飼い猫に噛まれし夢の明けやすし  猫に噛まれる夢は思わぬ相手から攻撃される暗示 人間関係のトラブルが起こるかもしれないという凶 夢であるのを調べて知っておどろいた。  自分も飼っているインコに噛まれる夢を見たこと があったがなにも無かったなと思った。

俳句:飼い猫に噛まれし夢の明けやすし 感想:私はこの俳句を詠んで、飼い主が気持ちよく  昼寝をしていて、いい夢を見ていて起きたくない  と感じていたのに、猫に噛まれた痛さで起きてし  まって残念に思っているような感じがしました。

俳句:飼い猫に噛まれし夢の明やすし (石田栄子) 感想:私は飼い猫に起こされたならいい夢を見てい  たとしても起きてしまう、現実の幸せはいいもの  だという意味があると思いました。

  飼い猫に噛まれし夢の明やすし (石田栄子) 感想   実家で猫を飼っていて猫に起こされた経験があっ  たのでこの句を選びました。

  飼い猫に噛まれし夢の明けやすし(石田栄子)  この句では、昼寝かうたた寝をしていた場面と思 われる。飼い主が寝ていると飼い猫が急に手などど こかを噛んできて、その痛みか衝撃かはわからない が、それに驚いた飼い主は飛び起き、夢などどこか に飛んでいくように眠りから覚めるようである。確 かに、眠りを誰かに邪魔されると夢というのは面白 いことに忘れている場合が多く、また、眠くてもす ぐに目が覚める。目覚まし時計ではこのような事は なく、実に面白いことだなと思う。  次の句は私が自作した句である。   大雨の降るときいつも窓全開  これは、その句を読んで字のごとく、そのままで ある。私は、ほとんど窓を開けて換気しながら勉強 するのだが、最近、あまりテレビの天気予報を見る ことが無く、そのせいか窓を全開にしている中、大 雨にあい、窓枠や周辺がビシャビシャになるまで気 が付かない。自分で言うのは変かもしれないが、い つもこのことのせいで窓枠周辺を拭き掃除している 気がする。雨だけだったらいいのだが、最近、PM 2.5などの大気汚染物質が雨に含まれている ため、 拭き掃除をしないと、雨の跡が黒くなってしまうの でそこが嫌な点である。しかし、窓を開けずにエア コンで過ごせばいいのではとよく言われる。まだ、 六月なので極力エアコンは使いたくはなかったが、 ついに昨夜エアコンをつけて寝た。とても快適です ぐに眠りにつけた。文明の英知すごし。

 今回私が選んだ句は   短夜や王手のままの将棋盤 (佐々木有風) です。  この句は昔に読まれた冬くらいの句なのではない かと思いました。理由は、まだ蛍光灯などがない季 節だと、暗くなると何も見えなくなると思います。 冬だと暗くなるのが早いから、王手のまま決着がつ かないまま暗くなってしまったのかなと感じました。

  短夜や王手のままの将棋盤  この句を作った佐々木有風(ゆうふう)は新潟県 出身で東京帝大卒業の昭和期の俳人である。彼は将 棋を好んでいた事がわかる。プロ棋士の試合では封 じ手と呼ばれる試合中断があり、彼もそれをしたの かもしれない。梅雨の景色が浮かんでくる作品だと 思った。

  短 夜 や 王 手 の ま ま の 将 棋 盤   将棋で詰んだが、それを受け入れられなく、何か 手があるはずだと藻掻き、短い時間で色々なことを 考えて、一瞬が一晩位長く感じられる思いになりま した。

好きな句:短夜や王手のままの将棋盤              (佐々木有風) 感想:徹夜麻雀ならぬ徹夜将棋でもしようとしてい  たのか。夜明けまでに決着がつくと思っていたが  夜が短いせいかあと少しというところで時間=夜  明けがきてしまう。このまま続けると今日の活動  に支障がでるので一時中断だ。   短夜に「まだ将棋が終わってないぞ」と文句を  言うような光景が思い浮かびました。

 私の好みの句は、佐々木有風さんの「短夜や大手 のままの将棋盤」の句です。  理由は、春分を過ぎて昼の時間が徐々に長くなる ことで、次第に夜の時間がどんどん短くなっていく 様子にどこか儚いものを感じさせるからです。時期 も夏至の頃の6月中頃となり、ちょうど今頃のよう な朝が来るのが早く感じる時ということもあり、イ メージがしやすかったのもあるかもしれません。い つのまにか朝が来るのが早くなっていて、いつもの ように将棋を指していたら朝が来てしまったものだ から、急いで次の日の用意をしている様で、放置さ れてしまった将棋盤がなんとも言えない寂しさや儚 さを出していると感じました。

目高(めだか)   菱の中に日向(ひなた)ありけり目高浮く                (村上鬼城)  光が差し込む水草の中で目高が泳いでいる描写が 書かれた俳句である。目高浮くといった表現から緩 やかに泳いでいることが伝わる俳句でした。

選択した詩:   鮴(ごり)さわぐアルミの鍋に移されて 感想:この詩からは現代的でありながら懐かしい雰  囲気を感じました。郷土料理のゴリ汁のことを指  しながら、アルミの鍋を使っています。このこと  から、昔から続いている伝統の料理を現在で作っ  ている光景が目に浮かびます。鍋の中で元気に暴  れまわっていることも、「ごり押し」の語源とも  いわれる鮴らしいと思いました。

  鮴さわぐアルミの鍋に移されて(阿波野青畝)  この歌から私は鮴汁を作っている状況がイメージ できました。鮴には別名である鰍という名前がある のですが漢字の通り魚へんに秋と書くため基本的に 旬は秋とされています。しかし今の時期の鮴は産卵 期にあたり婚姻色が出ていてきれいだそうです。そ のため私はお腹がぱんぱんに膨れた鮴や色鮮やかな 鮴がアルミの鍋に移されて鮴汁にされていく情景が 特に浮かんできました。  今回も一つ歌を作ってみました。 「めで鯛」   果てるまで 別れを知らぬ 夫婦鯛  真鯛が結婚式等で使われる理由は色が鮮やかなだ けでなく、つがいとして一生を添い遂げる習性をもっ た魚だからだそうです。

  鮴さわぐアルミの鍋に移されて  はじめは鮴(ごり)がメバルかと思い想像がいまい ちできませんでしたが、川カジカのこととわかり、 金沢あたりの郷土料理だと思い出したので、イメー ジができました。  今では高級品扱いの魚ですが、きっと当時は温ま るのに(味噌仕立てらしいので)よく食べられていた のかなと勝手に想像しました。

  ごり(漢字の予測変換が出てきませんでした)      さわぐアルミの鍋に移されて  まず川魚であるごりの味を思い出しました。さら にごりを鍋に入れてゆでて食べるという情景が理解 しやすかったのでこの俳句にしました。

 鮴 さ わ ぐ ア ル ミ の 鍋 に 移 さ れ て  今から調理されるという、背景とそれをまだ生き ていて拒もうとしている鮴のなのか、これから鍋に いれて、煮られるのかどうされるのか、とてもシン プルな俳句なのに一番想像しやすいためとても印象 に残りやすかった。

鮴   鮴さわぐアルミの鍋に移されて(阿波野青畝)  この句は、活きの良いゴリが鍋の中に入れられて 調理されている様子を想像させる。また、金沢がゴ リ料理の有名な地であることから、金沢での一幕を 句にしたのかなと思った。アルミ鍋ではIHコンロが 使用できないので一昔前の句であることがわかる。

  鮴さわぐアルミの鍋に移されて 感想   自分は、魚が好きなので、鮴が夏から秋の魚な  ので、季節のイメージがしやすくて、分かりやす  かったです。

俳句:   鮴騒ぐ   アルミの鍋に   移されて 感想:   まだ活きのいいゴリが必死に生きようとしてい  る姿が思い浮かんで、命をいただくことの大切さ  を再確認できたようなきがしました。

鮴(ごり)   鮴 さ わ ぐ ア ル ミ の 鍋 に 移 さ れ て             ( 阿 波 野 青 畝 )  新鮮でまだ生きている鮴が、アルミ鍋ではねてい る場面を想像した。昔のなつかしさと風情や、鮴の 生命力も感じさせる俳句だった。

鮴(ごり)   鮴さわぐアルミの鍋に移されて             (阿波野青畝)  この句を詠むと、数匹の鮴がアルミ鍋の中で揚げ られていて、その時の揚げる音がまるで鮴たちが騒 いでいるのではないかと想像してしまった。

  鮴さわぐアルミの鍋に移されて  さわぐという言葉から、鮴が鍋に入れられ暴れて いる様子が目に浮かびました。  また、移されてという言葉から、鮴の意志ではな いこともわかりやすく、抵抗するように暴れる鮴が 思い浮かぶ残酷な俳句だと思いました。

  鮴さわぐアルミの鍋に移されて (阿波野青畝)  この俳句は鮴を生きたまま鍋で調理しようとして いる様子を詠んだものでしょうか?料理が完成した あとが楽しみになるような気持ちになる俳句だと思 いました

鮴( ご り ) 鮴 さ わ ぐ ア ル ミ の 鍋 に 移 さ れ て            ( 阿 波 野 青 畝 )  まずこの句の季語は鮴です。鮴がどんな魚かわか らなかったので調べてみるとヨシノボリやチチブと いう呼び名の淡水魚でした。鮴という魚を調べてこ の句を詠むとすごくイメージしやすい句だと感じま した。生きている鮴を水か何かが沸騰しているアル ミの鍋に投入されている場面を詠んでいるのだと思 いました。17音しか使っていないのに17音で書か れている内容以上の情報がこの句からは読み取れる ことがこの句のすごい点だと思います。また私が鮴 を季語に詠もうとするならば鮴が泳いでいる光景を 詠むと思いますが、岡本さんは調理される場面を詠 まれているためこの句の珍しさや新しさのようなも のも感じました。

  パセリ青し日曜という週はじめ( 岡 本 眸 )  自分は、パセリの青々しさと週初めのすがすがし さが伝わってきてとてもすきです。ちなみに自分は パセリが嫌いです。

  パセリ青し日曜という週はじめ (岡本眸)  自分の家で育てているのであろうパセリが青く立 派に成長しているのを、確認し、日曜という休みの 日を楽しみこの日からまた一週間が始まるので、が んばろうとしていることが感じられた。

  パセリ青し日曜という週はじめ (岡本眸) ・金曜日の仕事終わり、飲み会へ行き、帰って寝る。  土曜の昼に目が覚める。何気ない土曜日。そして  日曜日。縛られたような毎日からの解放を感じる。  少し自分らしくいられる気がする。そんな気持ち  で朝食を作る。台所のすみに置いてあるパセリを  そっとそえて、食らう。さわやかな日曜日がきた。

「パセリ青し日曜という週はじめ」  パセリの旬ではない、夏の季語ということに驚い た。  青々としたパセリは、自分の週初めの活力を表し ていると感じた。

選んだ俳句 パセリ青し日曜という週はじめ  パセリというのは、夏の季語であり、日曜という 週はじめというのは、次の日が、憂鬱でその憂鬱感 で日曜日を週はじめと表しているのでないかと思い ます。

パセリ パセリ青し日曜日という週はじめ              (岡本眸)  明日から長い平日が始まると考えてしまうと、日 曜日は顔が青ざめる程、心配でいっぱいであること を描写していると思った。

 パ セ リ 青 し 日 曜 と い う 週 は じ め               ( 岡 本 眸 )  パセリと日曜の週初めというのがどちらも爽やか な感じで、情景が自然と浮かんできてとても気分の 良い俳句だと思いました。

パセリ   パセリ青し日曜という週はじめ (岡本眸) 感想   パセリと週はじめは関係あるのか考えさせられ  た。   なぜ、緑を青と表現するのか気になった。

パ セ リ パ セ リ 青 し 日 曜 と い う 週 は じ め                ( 岡 本 眸 ) 感想   日曜日は週初めで新しい1週間をいろんな意味  で捉えてる感じがします。

好きな句1つ目: パセリ青し日曜という週はじめ 感想: 私にとっては俳句の中に『パセリ』という  外来語が含まれているところが少し不思議に感じ  て、パセリの青さが週の初めを出迎えてくれてま  た1週間頑張れるという気持ちになった。 好きな句2つ目: 瀬戸走る潮が強し田植時 感想: 瀬戸内海を流れる潮の流れが強い時に田植  えの時期が始まるという描写があり、瀬戸内海の  暖かい気候が今から始まろうとしているのが感じ  とられて自分も俳句と同じ状況で田植えをしたい  と思った。

 

【第3回目俳句感想文】
選んだ俳句:夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし 感想:まず、地軸の軋む音とはなんだと面白かった  です。確かに、夏至の時は地軸が太陽に対して一  番傾くととらえることは出来ますが、軋むという  表現に面白さをなぜか感じました。また、夏至と  地軸の傾きを関係づけた考えも自分にはない発想  だと感じました。

  夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし  夏至は太陽が一番高くなる時期でその時期が近く 時や過ぎた時は地軸が傾くことを軋むと表現してい ると思いました。

  夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし(和田悟朗) 感想  ちょうどこの課題をしている時が夏至の日で、こ の俳句がとてもタイムリーなものに感じた。夏至の 時は、春の新生活が過ぎ少し慣れてきた時期なので、 夏至が来るともう夏が来るのか、と時間の進む速さ を感じる。また、地軸の傾きがなければこのような 思いにふけることもなく夏か冬のみだったので、日 本の文学に見られる季節ごとの美しい詩や俳句が生 まれなかったかもしれないと思うと、地軸に感謝す る気持ちもある。

  夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし  地軸の影響によって夏至があることについてを、 より身近に感じられるような表現を用いてこの句を 書いてる感じがした。  夏を感じる。

  夏至ゆうべ地軸の軋む音すこし 感想:夏至の日を過ごしていると、地球にとっては  豆粒のような自分でも、地球の回転する音が聞こ  えることで、自分の存在が少しだけでも大きくなっ  たのではないかと感じました。

  夏至ゆうべ地軸の軋む音少し (感想)  夏至とは昼夜の時間が等しくなる日であるが、 「地軸が軋む音」という所でこれからは夜が長くな ることを実感させられる詩である

  夏至の夜の港に白き船数ふ  岡田日郎  夏至とは最も昼が長い日である。この詩を読んで 思ったことは、夏至は昼が長いということは逆に夜 が最も短いということなので、その短い夜のなか悲 しそうに」船を見て数えているのではないかと思い ました。

  夏 至 の 夜 の 港 に 白 き 船 数 ふ             ( 岡 田 日 郎 )  夜に港に白く目立つ船の数を数える作者の涼しい 情景が思い浮かべられて、夏の訪れを感じさせる俳 句でした。

  夏至の夜の港に白き船数ふ (岡田 日郎) 夏至の季節はちょうど日本では梅雨の時期に入って いるらしく、この詩に書かれている夜の港にも雨が 降っていたとしたらどこかもの寂しい感じがするイ メージを受けました。夜なので白い船が際立って見 えて数えるくらいたくさん浮いていて、晴れた夜に 見れば幻想的な光景も雨が降ると船が泣いているよ うな晴れた時には見られない悲しい光景が想像され ました。その時の天気やその光景を見た人の心情に 反映して感じるイメージが変わるような風景をうま く表現した詩だと思いました。

私は「夏至の夜の港に白き船数ふ」が気に入りまし た。私の住んでいるアパートから海が目の前で、船 が通る様子もよく見えるのでよく船を見ています。 その様子とこの俳句の情景が重なってとてもいいと 感じたからです。

  夏至の夜の港に白き船数ふ(岡田日郎) 夏至の夜は、1年で1番短い。日没が1年で1番遅 く、夜まで明るい。そんな夜は辺りが明るいのだか ら、港に白い船が停まっているのがよく見えて、数 えている様子がわかる。

  夏 至 の 夜 の 港 に 白 き 船 数 ふ  昼の時間が長いため、夜の時間は短いです。朝日 が早く上ります。  早く寝て早朝の漁に備えなければならないが、こ の短い夜が儚くて寝られないなあという感じがしま した。

  夏 至 の 夜 の 港 に 白 き 船 数 ふ ( 岡 田 日 郎 )  一年で一番短い夜の港に白い船があるので、その 日はとても明るい一日になっただろう。

  夏至の夜の港に白き船数ふ 夏の夜にいつも暗くて船場を見ても何も見えないが、 夏至は昼の時間が一番長いので、いつもは暗い時間 でも今日だけは船舶数を数えることのできるくらい の暗さであり、何か不思議な日に出会えた感じのす る俳句だと思いました。

  夏至の夜の港に白き船数ふ 感想)夏至は夏の訪れを感じさせ、またそれと同時  に梅雨の終わりを感じます。なので、夏至の夜に  なると、梅雨が終わり雨も降らなくなるので漁師  は海に出かけるのではないかと思いました。今年  の夏至の夜は、私の出身地に比べて漁船が多いた  め港に行ってみたいです。

  夏至の夜の港に白き船数ふ (岡田日朗) 感想・・・港ということは海が見える場所にいるん  だなと思ったのできっと夜の海のきれいな景色が  目の前に広がっているんだなと感じました。

  夏 至 の 夜 の 港 に 白 き 船 数 ふ             ( 岡 田 日 郎 )  私が住んでいた奄美大島では、身近に海があった。 夜に一人で港に行って、堤防の先に足を投げ出して 海を眺めていたり、部活帰りに港に行き、海を眺め る時間は、とても幸せな時間であった。船舶免許を 持っていることもあり、港に泊まっている船を見な がら、『この船運転しにくそう』とか『この船で沖 に行ったら楽しいだろうな』とか考えることも多く、 この句を詠むと、そういった懐かしい光景が次々に 蘇ってきた。

  夏至の夜の港に白き船数ふ 感想   一年のうちで最も昼の時間が長い夏至の日に、  普段では有り得ない時間帯に太陽の光が船を照ら  し、海には白くてまぶしい船が見えているといっ  た情景が頭の中で思い描かれました。とても面白  い詩であると思います。

 夏至の夜の港に白き船数ふ    (岡田日郎) 感想  この俳句を詠んだ時に夏至の夜、港で夏らしい風 が吹いている中、誰かと一緒に港に浮かんでいる船 を数えている情景が思い浮かび、とても印象に残り ました。夏至は一年中で一番日が長い時期であり、 逆を言えば夜が一番短い時期です。短い夜ではある が、夜の海を見ながら大切な人の事を思ったり、ゆっ くりと夜の時間を味わうなどの過ごし方も素敵だな と思いました。

夏至   夏至の夜の港に白き船数ふ (岡田日郎)  夏至の夜は普段の同じ時間帯に比べると明るく微 かに白い船のみが目視で確認出来る状況であり、だ からこそ普段では見ることのできない夜の船の数を ふと数えてしまう。  そのような風景と心情が思い浮かびました。

夏至   夏至の夜の港に白き船数ふ (岡田日郎) 感想  夏に何気ない気持ちで港に釣りに行った時の月明 かりに照らされ、かすかに白く光る船思い浮かべら れ、なんとなく夏の夜の静けさと夏ながらも冷やや か空気が感じられた。

  夏至の夜の港に白き船数ふ  私はこの俳句を選びました。  浮かぶ情景として、田舎の港町の、夏が来て日が 長くなって、まだ薄暗いくらいの夕方に港の少し沖 合に数隻漁船が浮かんでいる場面が思い浮かびまし た。  私自身こういった情景がとても好きなので、この 句について述べました。  父の実家の鳥取の日本海の漁港でこの句のような 景色を見たことが、今でも心に残っています。  水産大の周りの景色もとてもきれいで、これから の季節が楽しみです。

  夏至の夜の港に白き船数ふ(岡田日郎)  この俳句を詠むと夏至の日に漁から帰ってきた漁 船が、空に浮かぶ月の白い光を浴びて港に係留され ている光景が目に浮かんでくる。

  オン・ザ・ロック白夜てふ刻ゆるやかに 感想   カタカナが使われているのでインパクトがあっ  た。

オ ン ・ ザ ・ ロ ッ ク    白 夜 て ふ 刻 ( と き ) ゆ る や か に  季語は、白夜である。オン・ザ・ロックとは、氷 を入れたグラスに酒を注いだ飲み物であり、この俳 句は、百夜という、真っ暗になることのない長い夜 を、氷で薄めた酒を飲みながらゆったりと過ごして いる風景を読んでいるのだと思った。俳句という日 本の文化にカタカナを入れることで意外性が出てい る。

  オン・ザ・ロック白夜てふ刻ゆるやかに                 (いとうふゆ)  オン・ザ・ロックといった激しめの書き出しで南 極の極寒のイメージが浮き上がり、そこから七五の ところの白夜という日が沈まぬ、ある種ゆったりと した感覚がとても気に入りました。  南極いってみたいです。

  オン・ザ・ロック白夜てふ刻ゆるやかに           (いとうふゆ) 感想  オン・ザ・ロックという英語が日本の文化である 俳句に入っているのがぎこちなくて好きだ。しかし、 それによってやわらかい表現が生まれていると感じ たので俳句初心者でも楽しみやすいのかなあと感じ た。

オ ン ・ ザ ・ ロ ッ ク 白 夜 て ふ 刻 ( と き )            ゆ る や か に  西洋のことを俳句に落とし込み出来ているところ が他のと違うように感じられてよかった。現代風に 感じられて好きだった。

 オン・ザ・ロック白夜てふ刻(とき)ゆるやかに                (いとうゆふ)  俳句といわれると私の中では日本の感じがするの でこの俳句は珍しいなと思い今回この俳句を選びま した。意味はよくわからないけど白夜で暗くならな いから緩やかに一日が進んでいるように感じるとい うことなのかなと思いました。

白夜 (はくや 、びやくや)  オン・ザ・ロック 白夜てふ刻(とき)     ゆるやかに    (いとうゆふ) (感想) カタカナが使用されている詩であったので、  珍しいと思った。前衛的な作品なのだなと感じた。

白夜  オン・ザ・ロック白夜てふ刻(とき)ゆるやかに  昔の言葉遣いの中にカタカナが入っているのがと ても印象的に感じた。ロックは激しく、テンポが速 いイメージなので、そんな中ゆるやかに過ぎる刻と はいかなるものかと惹かれる詩である。

  オン・ザ・ロック白夜てふ刻ゆるやかに  英語が含まれている俳句を初めて見たわけではな いが珍しいと思った。また、上五に酒の飲み方を持っ てきておりインパクトが強いと感じた。私は、この 俳句を白夜という明るい時には、酒を飲むのを控え てしまうというふうによみとった。私は、酒を飲ま ないし白夜も経験したことが無いが何となく理解が できる部分があった。

好きな句: 梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ 感想: 現在梅雨の時期であるので、この句に親しみ  を持った。梅雨のせいで真っ暗だった海に金箔が  広がっているように見えて海が美しくなっている  様子を描写しているのだと思う。『金ン』という  表現の仕方は作者にとって重要な意味を暗示して  いるのではないかと思った。

  梅雨の月金ンのべては海はなやぎぬ (原裕)  情景が浮かんできて良いと思う

〈好きな句〉   梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ 〈感想〉   下関も最近梅雨入りしたばかりだ。   私は吉見に住んでいるが、海や川沿いの家では  ないのでベランダ出たらすぐ海が見えるわけでわ  ないが週に一度の登校や、友達の家を訪れる際に  海や川の水位や流れの速さを見て梅雨を感じたり  もしているのでこの詩に親近感を湧いた。

  梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ  梅雨の時期で波が少し高くなり、月の明かりで海 がキラキラと輝いている情景が浮かび、綺麗と思い つつも、夜の海というところが若干の怪しさを感じ させました。

  梅雨の月金ンのべて海はなやぎぬ  最近梅雨に入ってるからいい句だと思った。  雨ばっかり降ってて最近月が見えないけど見えた 時に海が光るのが綺麗だと思った。

志 士 の 町 す つ く と 立 ち て 南 風 の 町   感想:町の活発な様子を情景と共に美しく表現    していると思います。

俳句:島々や千々に砕けて夏の海 感想:私は功績や思い出などの大切なことも夏の海  のようにすぐ忘れてしまうという意味が込められ  ていると思いました。

  嶋嶋や千々にくだけて夏の海  有名な人の俳句だったから。

引 い て ゆ く 長 き ひ ゞ き や 五 月 浪              ( 鈴 木 花 蓑 )      梅雨の時期に海に立つ波を五月浪という     ことを知り、「引いてゆく」という表現と     「長きひゞき」という表現から梅雨が明け     ることを名残惜しく感じているのではない     かと思いました。

  引いてゆく 長きひびきや 五月浪 理由:五月の潮がゆっくりと音を立てながら引いてい  くのが、分かりやすく、風情があったから。

皐 月 ( さ つ き ) 波 引 い て ゆ く 長 き ひ ゞ き や 五 月 浪           ( 鈴 木 花 蓑 )  まずこの句の季語は五月浪ですが、どういう様子 を表している季語かわからなかったので調べてみる と、「陰暦5月の海に立つ波。強い南風が吹き、波 濤(はとう)が高い」とあり夏の季語でした。  この句の「ひびきや」までみると、「引いてゆく」 からは何が引いていくのかはわかりませんでした。 続く「長きひびきや」をみると、何らかの音が引い ていくあるいは、音が消えていくのかなと考えまし た。そして最後の「五月浪」をみると、この句は波 についての句なのだとわかりました。五月浪の意味 を知らない私は、夕暮れ時の砂浜に打ち寄せる波が 引いていく、物悲しいと感じられる情景を詠んだの かなと思いました。しかし五月浪というのは、強い 南風が吹き、波も高いことを指す季語であり、私が この句から感じた様子とは異なるのだとわかりまし た。では、この句の表している様子はどんなだと考 えましたが、私にはわかりませんでした。「や」で 句が切れていますが、その前後のつながりがつかめ ないのです。しかし先ほども書きましたが、私には この句全体が物悲しいように感じて、それがすごく 風情がありいいなと思ってこの句を選びました。

【選んだ俳句】   みつ豆や仲がよすぎてする喧嘩  稲垣きくの 【感想】  昔からの歴史と人と人のつながりを感じました。  蜜豆は、器に盛られた寒天や白玉、果物の上に蜜 をかけた和風の甘味で、最近は一年を通して食べら れますが、もともとは夏に食べられていたようです。 昔に生み出された甘味が今まで伝えられていること、 最初に作られた姿が時を経て変化してきたことから 時の流れを感じました。  蜜豆めぐってする喧嘩。原因は器に盛る材料、配 分の割合、蜜のこだわりなどが考えられます。喧嘩 相手も家族や、友達など様々でしょう。私が、一番 最初に思い浮かべたのは、分けた量に納得がいかな い姉妹の喧嘩です。私自身、普段は仲の良い姉と食 べ物をめぐって喧嘩したことがあります。喧嘩する ほど仲が良いという言葉があるように、相手を意識 しすぎて好きすぎて喧嘩に発展するのだと思います。  この句を通して、私と姉とのつながり、人と人と のつながりを感じることができました。

  みつ豆や仲がよすぎてする喧嘩  みつ豆が何かわからなかったので調べたら夏の季 語であること、細く切った寒天に羊羹やらフルーツ を盛り付けるものと分かった。  そこから子供が好みそうなものという印象を受け てそれを普段は仲のいい小さい子達が取り合って喧 嘩する様子が浮かばれてなんか懐かしい気持ちになっ た。

  みつ豆や仲がよすぎてする喧嘩 感想  食べ物が出てくるのが他の句と違って面白いと思っ た。「仲がよすぎ」ると人のように感情を持たせて いるのが独特だと思った。喧嘩をしても結局は一つ として食べてしまうことが少し悲しい気もした。

  みつ豆や仲が良すぎてする喧嘩  この俳句は豆同士のことを子供に例えている隠喩 を使っておりとてもかわいらしい情景を思い浮かべ ることができました。

  みつ豆や仲がよすぎてする喧嘩              (稲垣きくの)  夏の暑い日に冷たい蜜豆を取り合うところが情景 もして浮かんできて微笑ましくなりました。夏の暑 さにも負けずに元気に喧嘩する仲が懐かしく思いま した。

蜜豆(みつまめ)   みつ豆や仲がよすぎてする喧嘩(けんか)             (稲垣きくの) ・夏のある日に自分と同じくらいの子、あるいは兄  弟姉妹とおいしい蜜豆を取り合っているという句  であると思いますが、私はそれと同時に蜜豆の具  が器にぎっしり詰まっている光景も思い浮かびま  した。それを喧嘩として自分たちの様子と対比さ  せているのかなと解釈しました。蜜豆という小さ  な物に焦点をあてながらその周りの様子を書くこ  とで涼しさというか黄昏に浸るような気持ちにな  れる句であると思いました。

み つ 豆 や 仲 が よ す ぎ て す る   喧 嘩 ( け ん か )( 稲 垣 き く の)  感想  最近僕の隣人がこの俳句の通りになっていて、悲 しくなりました。

み つ 豆 や 仲 が よ す ぎ て す る 喧 嘩           ( 稲 垣 き く の )  蜜豆は寒天や白玉、フルーツが入った和風のデザー トのことです。夏になるとそれを冷たくし、子供た ちがそれを食べる情景が、夏の一つの日常的な場面 になるのでしょう。この詩は兄弟あるいは姉妹が蜜 豆の取り合いで喧嘩していますが、私は1年前の文 化祭のバザーで、蜜豆だけ売れ残って処理に困り、 もめあうとなりのクラスの人たちを思い出しました。 結局ptaだった私の父が買い取り、まだ私の家の冷 凍庫の中に眠っています。

  みつ豆や仲が良すぎてする喧嘩  仲が良すぎてする喧嘩には、お互い遠慮すること がないことから来るのではないかなどの考えが思い 浮かぶがみつ豆が一体何を示しているのかまったく わからなかった

み つ 豆 や 仲 が よ す ぎ て す る     喧 嘩 ( け ん か )( 稲 垣 き く の )   美味しい蜜豆を普段は仲の良い人たちが喧嘩し て取り合う情景が浮かんできて何気ない日常を表し たほのぼのした俳句だと思いました。

  飛 魚 の 翔 ( か ) け り 翔 け る や       潮 楽 し   ( 篠 原 鳳 作 )  飛魚が潮の流れに乗って 勢いよく飛び駆け回る姿 が想像できます。

俳句:飛 魚 の 翔 け り 翔 け る や 潮 楽 し             ( 篠 原 鳳 作 ) 感想:飛魚が楽しく翔けられるほどの凪の海である  ことが伝わってくる。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作)  海の上を楽しそうに飛びまわっている様子が想像 できた。  飛魚が飛んでいる姿は見たことがないので、見た いと思った。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作) 感想:飛魚が飛ぶ姿を翔けると表現したり、潮楽し と詠んでいるところから飛魚が勢いよく飛ぶ姿が想 像できる。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し  私がこの句を選んだのは、句の中で共感する気持 ちが最も大きかったからです。  飛魚が海から飛び出てくる様は、実際には違うか もしれませんが、海の流れを楽しみながら、駆けて いき、ぴょんぴょん飛び跳ねているような気がしま す。自分が小さい頃に、船から見ていた海に、よく いた飛魚を思い出し、目の前にその光景が広がりま した。しばらく見れていない光景なので、船に乗っ てまた見たいという気持ちも生まれてきました。  このように、句の中で非常に共感でき、読んでい て情景が浮かんだのが、この句だったため選びまし た。(242字)

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作) トビウオが泳いでは飛ぶ様子って見てて飽きにくく 感じます。この俳句には結構共感が持てます。

選んだ句;飛魚の翔けり翔けるや潮楽し 感想;飛魚が水面を楽しそうに飛びながら泳いでい  る姿が想像でき穏やかな気持ちになれるからです。

飛魚   飛魚の翔けり翔けるや潮楽し 感想:飛魚の飛んでいる躍動感やまるで目の前に飛  魚がいるかのような映像が思い描かれていてそこ  にどんどんひかれていく。

  飛魚の   翔けり翔けるや   潮楽し  この句を読んで私はとても明るくていいくだなと 感じました。飛魚という所から季節は何となく夏の ように感じます。  作者からみたトビウオが楽しそうに飛び跳ねるの が想像出来て、またそれを見ている作者自信も、楽 しんでいるように感じました。

「飛魚の翔けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作)」 感想:飛魚は時速70km程度で100m以上、飛行す  るらしい。勢いあまって自ら船に飛び込んでしま  うこともあるほどである。映像を見てみたが、水  面近くを滑空する姿はサーファーのように、潮を  楽しんでいるようにも見える。飛魚の様子をあり  のままに表現しているのでわかりやすい。実家で  時々食べていた、飛び魚の唐揚げはふっくらして  いて、美味しかったのを思い出しました。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し  俳句のように飛魚が水面を飛んでいる様子を容易 に想像できる。飛魚が飛ぶのは捕食者から逃げるた めであったりとした理由で人を楽しませるためでは ないが、そこに海の生き生きとした動きを感じさせ てくれる。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し  海の上を縦横無尽に飛び回る飛魚によって潮の流 れも楽しそうに感じると表現した俳句だと思いまし た。もし飛魚のように海の上を飛び回れたらとても 気持ちいいと思いました。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作) 感想:この俳句は、飛魚という季語によって夏を想像  させる。また、海ときれいな青空を思い浮かべた。  さらに、飛魚が水上に飛び出す様子を潮楽しと表  現していることで、この句を読んだときに、風景  全体が笑っているようなイメージができた。

・飛魚の翔けり翔けるや潮楽し  大海原に僕はいる。その日、その時、海の気分で 潮が変わるんだ。空は快晴、波良好。今日も元気に いってきます。

 私は、 飛 魚 の 翔 ( か ) け り 翔 け る や 潮 楽 し ( 篠 原 鳳 作 ) という俳句が一 番好きになりました。 (感想) トビウオが海の上を飛んでいる姿を海の上 を楽しく翔けると表現するところが面白いと思いま した。

選んだ句   飛魚の翔り翔けるや潮楽し 篠原鳳作 感想   この句を読んだ時の思いついた情景は、夏の日  に海に遊びに行っている様子です。飛魚の飛び跳  ねるように大人から子供までみんなワイワイと海  で泳いだり遊んだりしている風景が連想できた。  この句からはこのような明るく楽しそうな雰囲気  が感じられたため特に目に留まったと感じる。

  飛魚の翔(か)けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作)  海から飛び出た飛魚に美しさや自然の力強さでは なく潮楽しに繋げているところから、飛魚だけでは なく、その海に対しても感情を向けているところが 素晴らしいと感じた。

  飛魚の翔(か)けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作)  トビウオというのを私はテレビなどで動画として しか見たことがないが、トビウオたちの躍動感あふ れる様子が目に浮かぶようでとても楽しい歌だと感 じた。また、「翔けり翔ける」というように同じ言 葉を2度重ねることで、トビウオの元気な様子を表 現しているのではないかと考えた。

飛魚   飛魚の翔(か)けり翔けるや潮楽し  飛魚の水面を優雅かつ楽しそうに翔ける情景が思 い浮かびました。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し  この俳句を見た感想として、飛魚というテーマに ついて、翔りと翔るが繋がっていることで、飛魚が 海面を飛んでいる様子が想像しやすく、潮楽しの部 分がさらにその様子を際立たせるようで、非常に爽 快感のある俳句だと思いました。

好きな句   飛魚の翔けり翔けるや潮楽し 感想   飛魚が海の上を翔び、海を泳いでいる様子をま  るで人が海で泳いで楽しむかのように飛魚も潮を  楽しんで元気よく翔んでいると見立てて若さを羨  ましく感じている。

飛魚 飛魚の翔(か)けり翔けるや潮楽し(篠原鳳作) 感想 夏の海は、飛魚のように海上をかける子供たち  でいっぱいで、海が活気あふれていることを描写  していると思った。

 飛魚 飛魚の翔(か)けり翔けるや潮楽し              (篠原鳳作)  飛魚が潮の流れを受けずに水面を飛んでいる様子 を眺め楽しんでいることが読み取れる俳句だった。

選んだ俳句 飛魚の 翔けり翔けるや 潮楽し  飛魚や翔けるなどを泳いでいるすがたをこのよう に飛んでいるように表現し最後の楽しの部分 がより 際立つように表現されていて、良いと思った。

飛 魚 の 翔 ( か ) け り 翔 け る や 潮 楽 し  釣りに行ったときに海面からトビウオが出てきて 群れで飛んでいることを見たことがある。この俳句 を詠むことでトビウオが飛んでいる情景を思い浮か べ、釣りに行った時のことがおもいだされる。

  飛魚の 翔けり翔けるや 潮楽し 飛魚が海の上を翔けたり飛んだりする姿を楽しんで いると捉えたことが面白いと思いました。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し  飛魚が飛んでいる時は海が賑やかで楽しいと感じ ました。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し :飛魚が飛んでいる様子と一緒に、潮も楽しそうに動 いているのが伝わるから

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し 「翔けり翔けるや」の部分で飛魚のスピード感が表 現されていて、景色が目に浮かんだ。こっちまで楽 しくなるようでとても好きな句だ。

  飛魚の翔(か)けりし翔けるや潮楽し            (篠原鳳作)  私がこの俳句を選んだ理由は最後の“楽し”という 言葉に惹かれたからだ。飛魚が水面から飛び出しな がら楽しそうに翔けている姿は何も考えず、ただひ たすらに自然を楽しんでいた昔を思い出した。最近 は、なかなか外で自由に遊ぶことはできないが、こ の俳句のおかげで、懐かしい思い出を振り返ること ができ、今後の楽しみを想像することができたと同 時にとても良い俳句であると感じた。

  飛魚の翔けり翔けるや潮楽し  早い潮の流れを容易く飛び越えていく飛魚をイメー ジできた。

飛 魚 飛 魚 の 翔 ( か ) け り 翔 け る や 潮 楽 し            ( 篠 原 鳳 作 )  トビウオの旬は6月〜8月にかけてと言われてい ます。そんな一番活発な時期のトビウオがバシャッ と音を立てて飛んでいる情景がとても鮮明に浮かん でくるような感じがしました。

選択した詩:省略の過ぎて水母となりにけり 感想:この詩の中で省略されているものは何かが一  番気になりました。私は、筆者が省略したものは  「絵」であると思います。筆者は絵を描いている  途中にめんどくささを感じ、簡略化しすぎたと所、  線はぐにゃぐにゃになりまるで水母のようになっ  たのだと思います。

省 略 の 過 ぎ て 水 母 と な り に け り            ( 中 里 良 )  まずは素直に読もう。「(何かを)省略しすぎて クラゲになってしまった。」・・・一体どういうこ となのだろう。クラゲは確かに体の構造は単純であ るし、ほとんどが水分でできている。人間に比べて かなり省略された生物かもしれない。もしくは作者 の精神、思考、つまり雑念を省略することにより、 海に漂うクラゲ、ある種の悟りを開いたということ か。作者はこのように自身を省略することにより俗 世間から逃避したかったのかもしれない。

 

【第4回目俳句感想文】
出 水 川 と ど ろ く 雲 の 絶 間 か な  この俳句の季語は、出水である。この俳句は、大 雨によって洪水した川と黒い雲の間から少しだけ青 空が見える景色が浮かぶ

  出水川とどろく雲の絶間かな (感想)  梅雨の時期に入り、じめじめした季節である。雨 上がりの雲の絶え間から覗く太陽が頭の中に浮かん でくるようだ。

  出水川とどろく雲の絶間かな  感想  大雨により荒れ狂った川を横目に空にある大量の 雲が突然途切れて、月が顔をだしている夜がイメー ジされた。よくあるような光景ではないがこれを容 易に想像できるような俳句をかけるのは素晴らしい。

選んだ句「出水川 とどろく雲の 絶間かな」 感想 もう梅雨の時期であり、洪水の恐ろしさを伝  える句に思えた。

  出水川とどろく雲の絶間かな(飯田蛇笏) 感想  今ちょうど梅雨時期で、近くの川が増水していた こともあり、タイムリーに感じた。近年洪水による 水害が多く、近くでは熊本で大洪水があったことか ら、今年はそれほど大きな洪水が起きないようにし てほしいと願っている。また、それに対する対策も 講じる必要があるなと感じた。

選んだ句「出水川 とどろく雲の 絶間かな」               (飯田蛇笏)  出水という水害の意味もある、季語を使っている にも関わらず、後半の句によって、雨が降るどころ か止んでいる想像ができるのはすごいと思った。

「出水川とどろく雲の絶間かな」 梅雨時期の大雨で川の水が、とどろく雲のように濁っ ている事が想像できる。

出 水 し て 森 の 奥 な る 月 明 り  この句を読んで、木々がたくさん生えている深い 森の奥で流れる川... というような情景が浮かんできて、森に行ってみた いと思いました。  拙い感想ですが、よろしくお願いします。

【選んだ俳句】 出水して森の奥なる月明かり      中川宗淵 【感想】  梅雨時期の雨の多さと幻想的な景色を感じました。  出水とは、広辞苑によると降雨のために河川など の水量が急に増すことをいうそうです。この言葉は 梅雨時期の季語だということで、梅雨の雨が出水の 原因だと考えられます。このことから、梅雨時期の 降水量がいかに大きいかが分かります。  そして、月明かりという言葉から、雨が上がり雲 の切れ間から月明かりがさしている情景が思い浮か びます。さらに、森の奥という言葉から、木々の間 から見えていることも想像できます。この葉の隙間、 雲の隙間、月という距離の違いで、奥行きが出て幻 想的な情景を思い浮かべることができるのだと思い ます。少ない言葉で奥行きのある立体的な景色を想 像させることができるなんて凄いと思いました。

俳句:出水して森の奥なる月明かり 感想:森の奥の水が湧き出ている場所に月の光が当た  るという幻想的な風景が出来ていると、この俳句  を読んで私は思いました。

  出水して森の奥なる月明かり (中川宗淵) 感想:悲しい出来事が起きても新しく良いところが  見えることもあるという気持ちが込もっていると  思いました

  軒簾(のきすだれ)この世の人の影絵過ぐ  誰かの家の軒下にかかっている簾のおかげで、家 の中は見えないけれど内側から漏れる明かりが中の 人の影を簾に写している。その様子がとてもほっこ りしているように感じた。

  軒簾この世の人の影絵過ぐ  私はこの句を選びました。  浮かぶ情景として、夕方のまだ少し明るい時間帯 の縁側にかかっているすだれを家の中かから眺めて いて、簾を隔てた反対側の道を歩く人々の影がうっ すらと簾に浮かんで見えている情景がうかびました。  簾という夏を思い浮かべる季語がとても良いと感 じました。夏の夕暮れというと、とても穏やかな気 持ちになれる時間帯、季節なので、この句がとても 良いなと思いました。  また、夏の夕暮れというと、これから出かけたり、 友達が家に呼びに来るといったわくわくするような 感情が自分の経験から思い起こされて、穏やかな気 持ちとわくわくする気持ちの両方を持ち合わせてい て、とても好きな句です。

  軒簾この世の人の影絵過ぐ まず単純に簾によって夏を涼しげに暮らしている風 景を読み取れます。次に人の影が簾に映り込む描写 に少し引っ掛かりを感じます。ここから簾の外と内 側に少なくとも2人居るのではないかと予想がつき ます。そこから想像を飛ばしてみると、簾の外には 遊ぶ子供、内には見守る家族がいるような状況がわ かります。どちらも同じ時間が流れているけども子 供にとってはあっという間なのに対して大人にとっ てはゆっくりと時間を感じているようです。同じ対 象でも観測者の状況が違えば見える景色もそれぞれ 異なるというところに風情を感じました。

  軒簾この世の人の影絵過ぐ  感想:簾を通して見える人影を美しく表現してい   ると思います。

「軒簾この世の人の影絵過ぐ」 (渡辺恭子)  軒下に掛けられた簾。今ではその光景もおばあちゃ んの家と蕎麦屋ぐらいでしか見れなくなってしまっ た。作者は簾越しに見える通行人のシルエットを影 絵と表現している。なんてすばらしい感性なのだろ う。この俳句に一目ぼれしてしまった。私はこの手 の感傷的な雰囲気の俳句が大好きだ。「この世の人」 から、影は霊の姿であり、簾は霊を視覚化するため のツールとして解釈されている。と始めは思ったの だが、どうやら違うらしい。簾を通して通行人を見 れば本来は動かないはずの影絵が、通り過ぎる映像 としてみる事ができる。とてもこの世のものとは思 えない!という意味なのだろう。それとも簾越しに 見る世界は影の世界であり、この世ではない別の世 界に見えたということなのだろうか。

  つやつやと巻きし簾や水の上  今住んでいるところはすぐそこに皮がある。  天気の良い日は、その川がキラキラ輝いて流れて いる。  この詩のようにつやつやとした簾のようで美しい。  高層ビルに囲まれた所で育った私にはとても季節 を感じられる  美しい情景で、夏の太陽を感じることができるた め、この詩を選んだ。

  つやつやと巻きし簾や水の上(松野自得)  打ち水のされた道路や軒先にある簾が作る日影と 簾の素材のいい香りといったなんとも涼しそうな様 子が想像でき、どこか懐かしい感じや涼しさが想像 できた。また、こういった情景は私たちにどこか自 然豊かな田舎を思い出させ落ち着いた気分にさせる と思った

  つやつやと巻きし簾や水の上 (松野自得)  ギ音が使われており、情景を想像しやすくしんみ りとした気持ちになった。

句 つやつやと巻きし簾や水の上 感想  簾を巻いて窓からの光を浴びる情景を想像した。 簾で光を遮っていたときには分からなかった、雨が 降った後の水が光に反射する様子をつやつやと表現 したのかと思った。梅雨の間の晴れた一時の輝かし さを考えた。

  つやつやと巻きし簾や水の上(松野自得)  なんとなく言葉の感じから涼しげな詩だなという 印象を最初に受けたのですが、この水の上ってどう いうことだろうと次に思いました。簾は掛けて使う ものなのに、水の上にあって巻かれている、全く光 景が頭に入ってきません。簾っぽい何かがそのよう に使われているとしたらと考えて浮かんだのが、蕎 麦のザルでした。それでもイメージできません。そ れから、よーく考えました。そして、思いました! 金魚が入っている壺の口にかけてあるあれじゃない かと。簾っぽい、つやつや、巻く。当てはまる気が します。しかもちゃんと水の上にあります。そうだ として、もう一回読み直しました。やっと頭に光景 が入って来ました!黄色っぽいあの簾みたいなのを そーっと巻いていくと、壺の中は暗くて、丸い水草 みたいなものに目を奪われながらよく目を凝らすと、 赤い金魚が泳いでます。もしかしたらメダカかもし れません。さらにもしかしたら、期待はずれに藻だ けが浮いてるだけかもしれません。金魚などが泳い でいたら綺麗だなと思いますが、同時に水が濁って るなぁとも思うかもしれません。どっちにしろ、夏 の風物詩だと思います。年中あるかもしれないです が!あの簾っぽいものを巻くまで何が入ってるかは わからないから無性に開けたくなるあの気持ちが蘇 りました。

  つやつやと巻きし簾や水の上 感想 簾の上を水が流れる様をゆっくり眺めている  様子が想像できました。作者は梅雨が始まり、初  夏の到来を示しているのを短歌にして読んでいる  のではないかと思われます。わたしもその光景を  見れば心が癒されそうです。とても心が落ち着く  俳句だと思いました。

選んだ句:つやつやと巻きし簾や水の上 感想:雨上がりの簾に水滴が垂れている様子が想像出  来る。

  つやつやと巻きし簾や水の上 感想 簾の上を水が流れる様をゆっくり眺めている  様子が想像できました。作者は梅雨が始まり、初  夏の到来を示しているのを短歌にして読んでいる  のではないかと思われます。わたしもその光景を  見れば心が癒されそうです。とても心が落ち着く  俳句だと思いました。

  ナイターの八回までは勝ちゐしを(大島民郎)  ナイター、ナイトゲームは甲子園の第4試合の時 によくあるイメージがあります。私はプロ野球は見 ないのですが、春と夏だけ球児たちの熱い戦いに心 を奪われていました。ですから今年はどちらも開催 されなかったことは残念です。甲子園では、ずっと 勝ち続けていたのに土壇場で追いつかれて延長して 逆転、などの展開がよくあるので、目が離せません ね。

ナ イ タ ー の 八 回 ま で は 勝 ち ゐ し を 感想:おそらくプロ野球のナイター戦のことを指し  ていると思います。9回の各チームの守護神が出  てくると勝つ確率が低くなるので8回までには勝  ち越したい、という思いが伝わってきた気がしま  す。私もこの句と共感するものがありましたので  この句を選びました。

  ナイターの八回までは勝ちゐしを  野球のナイターのはなしだと思うので八回までそ のままでってことでもこれから点が返りそうな感じ がとてもする。

  ナイターの八回までは勝ちゐしを(大島民郎) 夜の野球試合は後半まで勝ち越しをしていないと、 球場で飲み食いするご飯やビールも美味しくないし、 気分が盛り上がらないことを思い出します。勝ち点 を取らずに家に帰るときの気分の下がりかたが凄ま じいときもあります。  今年はようやく開幕してくれましたが、まだ無観 客試合です。球場で、はやくやじを飛ばしながらソ フトバンクホークスの応援をしたいです。

「ナイターの光の外に控え投手(飯田猛雄)」  ナイター試合でグラウンド上の選手たちは照明と 観客のスポットライトを浴びているのに対して、控 え投手はスポットライトを浴びることはない対照的 な情景が思い浮かぶ。一方で、虎視眈々と、いつで もマウンドに立てるように準備している控え投手の 強い意志も垣間見れる。

  ナイターの光の外に控へ投手 (飯田猛雄)  高校で野球をしていたのでこの気持ちというか情 景というか、そういうものが感じとりやすかった。 せつなさと、汗のしたたる感じがエモいと思いまし た。

ナ イ タ ー の 光 の 外 に 控 へ 投 手 ( 飯 田 猛 雄 )  野球好きの自分としてはこういう俳句は大好きだ。 ナイターの光の外、つまりはナイターの光が入らな いブルペンでリリーフとして呼ばれた時のために、 同じく控え捕手とともに肩を作りながら待機してい る、そういう光景が目に浮かんでくる。

  ナイターの光の外に控え投手 感想)この俳句を詠んだ時に、ナイターの試合でエー  スピッチャーはナイターの光が当たるが控え投手  はグランドの脇で投球練習をしているのを想像し  ました。また、高校野球などではエースピッチャー  はよくスポットライトがあたるが控え投手にはまっ  たく当たらないと改めて考えさせられました。

  ナイターの光の外に控へ投手  活躍している選手が光で照らされて輝いている中  控えの投手は試合に出てなくて目立っていないと  思いました。

・ナイターの光の外に控へ投手 (飯田猛雄)  パシッ。歓声。この流れに私はほっとする。チー ムが勝ちそうだ。私の心はその度負けるのか。弱い 自分が嫌になる。ーー  パシッ。歓声。光を見上げて微笑む。

  ナイターの光の外に控へ投手 (飯田猛雄)     ナイターの光が届かないブルペンなどで、     控え投手が自分が登板するために投球練習     を行っている場面が想像できました。

ナイターの光の外に控へ投手(飯田猛雄) (感想)ナイターという現代の言葉を使い今の僕でも 連想のしやすい俳句でした。最近プロ野球が開幕し て俳句の作者と同じわくわく感を味わうことができ ました。

  ナイターの光の外に控へ投手 (飯田猛雄)  私は、この句を見たときに昔を思い出した。私は、 高校時代、ソフトボール部に所属していた。合宿の 時などナイターの試合をしたとき、とある試合で私 は控えメンバーだった。レギュラーメンバーは照ら されているのに対し、ベンチメンバーは薄暗い中で 応援していた。その状況がデイゲームのときよりも 悔しかった。この控へ投手の悔しい気持ちやあの輝 いてプレーしている中に入りたいという思いが伝わっ てきた。非常に共感できる句である。

  ナイターの光の外に控へ投手 (飯田猛雄) 感想  プロ野球が開幕した現在、有名な選手が目立って いるが、控えの選手もいるということを思い出させ てくれる句だと感じた。もし自分が目立つ立場に立っ ていても、その人たちのことを忘れずに生活してい きたい。

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな             (永田耕衣 )  ナマズに」とって梅雨は産卵時期であるのでナマ ズが活性化する様子を(笑う)と表現していると考え る。

  梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな  実際には笑っているわけではないが梅雨のジメジ メした空間を好む鯰の様子が表現されているように 感じた

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな                 (永田耕衣)  梅雨に入って、夏をむかえることに気ずいた鯰が、 活き活きとしてきている様子が思い浮かんだ。

・私が選んだ俳句は 梅 雨 に 入 り て 細 ( こ ま ) か に 笑 ふ 鯰 か な ( 永 田 耕 衣 ) という句です。 (感想)梅雨に入り雨がよく降ることから、水が濁っ  たり、増量したりして、より住みやすくなったと  ナマズが喜ぶような印象を受けたので、面白いと  思ったからです。また、ナマズ視点から書かれて  ある句は珍しいと思ったから。

選択した詩:梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな 感想:鯰と言えば、私は個人的に泥沼を好むイメー ジがあります。この、鯰はきっと梅雨になり降り注 ぐ雨で増水した川の汚泥が巻き上げられ濁った水に 喜んでいるのかなと思いました。そして、細かに笑 うという表現は鯰のどことなく口角の高い顔を端的 に表していてとても面白い表現だと思いました。

好きな俳句 鯰(なまづ)、梅雨鯰 梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな(永田耕衣) 感想  鯰は梅雨の時期が産卵期にあたり、一か所に集まっ てくるそうです。そのため、私はこの俳句は産卵期 になって久しぶりに仲間に会えて笑いあってるけど 水の中だから水の外からは良く聞こえてこないけど 何か楽しそうな情景が浮かんできました。

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな             (永田耕衣)  梅雨の入って、夏をむかえることに気ずいた鯰が、 生き生きとしてきている様子が思い浮かんだ。

鯰(なまづ)、梅雨鯰   梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな               (永田耕衣)  この句の季語は「鯰」で、夏の季語となっていま す。梅雨に入って誰が細かに笑っているのかと思っ たらまさかの鯰でした。初めてこの句を詠んだ時、 確かに鯰の口は微笑んでいるようにも見えると共感 しました。口をパクパクさせているところが細かに 笑っているように見えたのでしょうか?鯰の口元を 見たことがない人には私とは違うとらえ方をしてい るかもしれません。しかしこの句は本当にすごいと 思いました。よくそんなところを切り取ったなと感 心させられます。  今回は、「飴山實」さんの、茄子の花の句とこの 鯰の句とで凄く悩みました。茄子の花の句もすごく 面白い場面を切り抜いているので私はとても好きな 作品でした。蜘蛛が茄子の近くに巣でも作っている のでしょうか?虫がかかるのを待っているところに 落ちてきた茄子の花に驚き逃げる蜘蛛の様子が浮か んできます。面白いですね。  どちらの句も文字だけのはずなのに頭の中に映像 が流れてくる、とても興味深い句でした。

選んだ俳句   梅雨に入りて 細かに笑う 鯰かな  この俳句から、梅雨を喜ぶ鯰の描写が思い浮かび ました。  調べたところ鯰のベストシーズンはやはり5月〜 7月と梅雨の時期でもあることが分かりました。こ のような旬の時期のことを、鯰が笑うと表現してい る所が面白いと思いました。

梅 雨 に 入 り て 細 ( こ ま ) か に 笑 ふ    鯰 か な   ( 永 田 耕 衣 )  「細かに笑う」という擬人法を用いた表現が奇抜 で面白いと思った。雨が降る中田んぼの中でナマズ が笑っているのが想像できる。

  梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな  私がこの句を選んだ理由は、鯰釣りをしていたこ ろの記憶が頭に浮かんできたからです。ほかのどの 句よりも、情景が浮かびやすかったです。梅雨で、 ジメジメしていて気分が下がりやすくて、あまり好 きではありませんでした。しかし、梅雨に鯰釣りを したことに関しては非常に楽しい思い出です。鯰が、 「釣れるものなら釣ってみろ」と言わんばかりに笑っ ている光景もすぐに、浮かんできました。  このようなことから、自分の鯰釣りの想い出を思 い出すことが出来て、さらに、鯰の気持ちも共感す ることが出来たので、この句を選びました。

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな             (永田耕衣)  人間にとっては憂鬱とした気分になる梅雨だが鯰 にとってはうれしい季節という梅雨の新しい見方が 素晴らしいと思った。

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな              (永田耕井)  この句を選んだ理由は、単に私が鯰がすきだから、 と言うわけではない。しかし、鯰をみていると、な ぜか鯰がうっすらと笑みを浮かべているように見え てくるのだ。おそらく、この句を詠んだ人も鯰がうっ すらと笑みを浮かべているように見えたのだろう。 そして、この笑みは梅雨が来たことにより、川の水 が増え、行動範囲が増えたことからの笑みだろうか、 などと考えたに違いない。  次の句は私の自作の句である。   梅雨の雨思っているほど長くない  この句は、最近梅雨に入ったというのに雨がなか なか降らず、また、降ったとしても長雨になる事は なく、短時間でやんでしまう場合が多いなとおもっ て詠んだ句である。雨が毎日のように降るのが梅雨 のイメージだったのだが、あまりにも降らなさ過ぎ て逆に雨が降ってほしいと思うようにまでなってき た。最近はやりの異常気象が身近に感じた私なので あった

  梅雨に入りて   細かに笑う   鯰かな  ナマズが細かに笑うという表現がユニークで面白 い句だと感じました。

 わたしが一番気に入った俳句は『梅雨に入りて細 かに笑ふ鯰かな』です。  理由は鯰は梅雨の時期に産卵し群れで浅瀬に集ま る習性をもっていて笑う鯰ということは家族などで 集まって楽しく話しているのではないかと思ったの でこれにしました。

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな               (永田耕衣) 「水を得た魚のよう」という言葉がある。これは自 由に活動できる場を得て生き生きとしているさまで ある。上記の句にもこれと同じく梅雨という鯰にとっ て良い環境になったことに対する喜びを感じられる。 最近雨が激しく降るがこれも自然の一部と私は楽し く過ごせている。

梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな(永田耕衣) 感想 梅雨入りが来てナマズがあちこちで活発に活動し始 めている様子が読み取れた。

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな                 (永田耕衣) 感想 鯰にとって良い環境になったことに対する喜  びを感じられる。最近雨が激しく降るが、これも  自然の一部と私は楽しく過ごせている。

梅 雨 に 入 り て 細 ( こ ま ) か に 笑 ふ      鯰 か な   ( 永 田 耕 衣 )  鯰以外にも、梅雨が来て喜ぶ生き物はたくさんい ると思う。

鯰(なまづ)、梅雨鯰   梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな             (永田耕衣)  梅雨は鯰の産卵期であることや激しい雨によって 水中が濁ることで目の悪い鯰にとっては影響がない が他の生物には視界が悪くなることで相対的に餌を 捕食しやすくなることで、鯰が活性化することが表 されていることが分かる俳句だと思いました。

好きな句   梅雨に入りて細かに笑う鯰かな 感想  鯰の大きな体とにぶい動きを梅雨の雨に例えてい るような気がする。梅雨の時期は、蒸し暑く雨が継 続して速いとも言えないある一定のスピードで振っ ている。人間はそんな時期を好きという人はあまり いないだろう。しかし鯰にとっては山に雨が降り注 ぐことで川が濁るため鯰にとってはいい時期かもし れない。

  梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな(永田耕衣) 感想:ナマズは微笑んでるような口をしていて、梅 雨に産卵期を迎え大きくなる。そのため無事に産卵 期を迎えることができて細かに笑っているように見 えることに納得した。

  梅雨に入りて細(こま)かに笑ふ鯰かな  今の時期にぴったりな句だと思う。鯰にとっては 梅雨も悪くないのかもしれない。

  梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな  鯰の顔は常に笑っているように見えますが、それ を梅雨に入って喜んで笑っているのだと表現してい るところが面白いと思いました。

梅 雨 に 入 り て 細 ( こ ま ) か に 笑 ふ     鯰 か な  この句を選んだ理由は、鯰目線で描かれてるとこ ろにひかれたからです。梅雨と鯰の関係がそうぞう されて、梅雨の良さも感じられました。

好きな句: 梅雨に入りて細かに笑ふ鯰かな 感想: 梅雨の季節に入り、雨が降り続いている中  で鯰は梅雨の時期を楽しんで暮らしている様子が  分かる。雨が降った後に川の中を覗き込んで、い  きいきと鯰が泳いでいる姿を自分も見てみたいと  思った。

「かんぱちも乗せて離島の連絡船(西池みどり)」  魚突きの際にブリ(ワラサ)の群れを見たことが あります。ブリ御三家と呼ばれるブリ、カンパチ、 ヒラマサは回遊魚であり高級魚なので、突くことが 難しく、魚突きの間では高嶺の花です。私は離島出 身でもあり、高級魚であるカンパチを獲って連絡船 に乗せて帰路につく筆者の喜びに共感できました。

か ん ぱ ち も 乗 せ て 離 島 の 連 絡 船  この俳句の中の人は、かんぱちが釣れてうらやま しいと思った。自分が釣りに行くとなんもつれない ことが多いので。  かんぱちもってことは、かんぱち以外にも離島で 何を釣ったのかが気になる俳句だと思った。

か ん ぱ ち も 乗 せ て 離 島 の 連 絡 船  かんぱちが泳いでいるということから夏だという こととそのかんぱちをつって喜んでいそうな船の人 が思い浮かぶ。  私も水産高校で夏にかんぱちを捕まえて大きく育 てていたこと思い出しました。

か ん ぱ ち も 乗 せ て 離 島 の 連 絡 船             ( 西 池 み ど り )  カンパチを乗せて連絡船が海を渡る情景が想像で き、優雅にゆったり進む船が運航中にカンパチを積 んで離島に行くとても、好きな俳句になりました。

  かんぱちも 乗せて離島の連絡船  連絡線にカンパチという旬の魚を乗せて食べなが ら行くという楽しそうな情景が見えてこっちまでカ ンパチが食べたくなった。

  かんぱちも 乗せて離島の連絡船  連絡船の力強さが、光ってみえた。  離島にとって、交通の便としてかかせないものな がらも、さらにかんぱちは、とても、マッチョな船 なのだろう

  かんぱちも乗せて離島の連絡船               (西池みどり)  かんぱちが釣れてさあこれから帰ってごちそうだ というその人の楽しみな気持ちが想像できます

間八(かんぱち)   かんぱちも乗せて離島の連絡船 (西池みどり) (感想)  私は、下関の蓋井島に釣りに行ったことがありま す。その時に友人が間八を釣りました。それを連絡 船に乗って持って帰りました。この句を詠むとその 時の思い出が鮮明に浮かんできました。以上の理由 より私はこの句を選びました。

  かんぱちも乗せて離島の連絡船 (西池みどり)  離島と本土をつなぐ連絡船が貨物船の役割も果た すような寂しい航路を連想しました。

  かんぱちも乗せて離島の連絡船 感想  私は離島で育ったためこの句に共感できた  船から魚が見えると一緒に乗ってるような感じが する

か ん ぱ ち も 乗 せ て 離 島 の 連 絡 船            ( 西 池 み ど り )  遠く離れた離島にいるひとに会うため連絡船にの り、夏が旬のカンパチを届けにいく様子を想像した。 贈り物としてカンパチが親しまれていたと考えると、 離島の生活と魚の関係の深さを感じた。

  かんぱちも乗せて離島の連絡船  最初の「かんぱちも」という部分では、乗ってい るのはかんぱちだけではないことがわかり、離島の 連絡船というところからあまり人は乗っていないん じゃないかと思い、この船はほかにどのようなもの を乗せているのかと気になる俳句でした。

「かんぱちも乗せて離島の連絡船」  離島を行き来する連絡船に夏が旬であるかんぱち も乗っている情景が、夏の到来を感じさせた。

間八(かんぱち)   かんぱちも乗せて離島の連絡船(西池みどり)  夏が来たので、離島の方に帰ってみようと思いを 馳せている様子を描写している。

  茄子(なす)の花こぼれて蜘蛛(くも)を      おどろかす  頭に浮かぶ風景で、きれいだな、と思ったからで す。授業の内容がおどろおどろしいので、余計、き れいに感じるのかもしれないです。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす感想  茄子の花が取れ、それが蜘蛛の巣に引っかかるこ とで、そこにいた蜘蛛が驚いてざっと動き出すよう な光景が頭の中に浮かびました。私の祖父も農家を しているため、そのようなシーンはたまに目にする ことがありますが、ずっと動かずに静止していた蜘 蛛がいっせいに動き出す姿はいつ見てもとても気持 ちが悪いです。今は、家元を離れて生活しています が、少しだけ祖父を思い出しました。とても良い俳 句でした。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす( 飴山實 ) 感想:茄子の茎や葉にクモの巣が張られている様子  が思い浮かぶ。花がこぼれたのは風が原因なのか、 それとも誰かが触って落としたのかといろいろな想 像ができる。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす(飴山賽)  実家の庭に植えてあった茄子。近くのクモの巣に 茄子の落葉やら萎んだ花やらくっついてたのを思い 出します。

  茄子の花 こぼれて蜘蛛を    おどろかす  茄子の花から雨の滴がこぼれて蜘蛛の巣に当たっ て蜘蛛がびくっとなっているところが梅雨になり夏 が近づいている様子をよく表していて良さげだと思 いました。

  茄子の花こぼれて蜘蛛(くも)をおどろかす                 (飴山寛) 感想  この句を詠んだ時に、蜘蛛が急に茄子の花が落ち てきてびっくりしている情景が思い浮かび、いつも 見かけたら「うわっ」となる蜘蛛がちょっと可愛ら しく思いました。また、夏の季語である茄子の花が 用いられているのでこの句を詠むと夏の気分が味わ えるのでとても印象に残りました。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす (飴山寛) 感想・・・茄子の花が落ちると聞いて、昔農家の祖  父が実になる前に落ちるられると困ると笑って言っ  ていたのを思い出しました。急に落ちるから蜘蛛  もびっくりしたのかなと一人で和んでしまいまし  た。

茄子の花   茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす (飴山實)  茄子の葉と葉の間に蜘蛛が巣を張っていてその巣 に散った茄子の葉が巣に引っかかって、驚き動き回 る蜘蛛の姿が思い浮かびました。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす  夏に近づくと茄子も実になり始めるが、それと同 時に茄子の花も散り出し、そのとき花の下にいた蜘 蛛を驚かしている様子から本当の夏を感じる句になっ ていると感じました。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす  この句を読んでみて、私は2つの情景を思い浮か べた。1つ目は、蜘蛛が花の上にいて花と一緒に蜘 蛛が落ちたという状況。もう1つは、蜘蛛が茄子の 木の下におり蜘蛛の頭上に花が落ちてきたという状 況である。私には、どの読み取り方が正解か分から なかった。また、この句の特徴は花と蜘蛛の両方を 擬人化で表現しているところではないかと考えた。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす 感想  この句は、蜘蛛の巣に茄子の花がおち蜘蛛の巣が 揺れる情景をはっきりとイメージできる素晴らしい 句だと思いました。これと同時に、雨が蜘蛛の巣に したたり蜘蛛の巣が揺れる情景が頭に浮かびました。

茄 子 の 花 こ ぼ れ て 蜘 蛛 を お ど ろ か す  すっかり春の面影がなくなり、いよいよ夏を迎え ようとしている。蜘蛛が活発に活動を始め、茄子に は花が咲き立派な実を付ける準備をしている。良い 茄子が成ると良いなあという期待も虚しく花は落ち てしまった。蜘蛛の巣に花がひっかかり、蜘蛛は餌 がきたとワクワクするが、残念ながら花だった。春 でも夏でもない季節でどこかもの寂しい感じがする 梅雨を思い浮かべました。

  茄子の花こぼれて蜘蛛(くも)をおどろかす                (飴山實)  茄子の花は咲いてもぽろぽろ落ちていく。理由は、 栄養不足や環境条件により花体が短くなり、受粉や 受精が出来ないから。そして花が咲いてもぽろぽろ 落ちるので、蜘蛛がおどろくというので、蜘蛛も上 から落ちてきておどろくのもしょうがないと思いま す。       (編者)一応、「花体」と読み取りました。

茄子の花こぼれて蜘蛛(くも)をおどろかす(飴山實) <感想>  茄子の花に限らず植物は少しずつ成長しているた め、植物の元で生活する生き物にとっては安定した 住みやすい場所だと思います。しかし、茄子は花が 咲いたら次に実を作る準備を始めます。したがって 今まであまり動いているように感じていなかった茄 子の花がこぼれて蜘蛛をおどろかしたのだと共感で きたためこの俳句を選びました。

茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす。   飴山實 茄子の花が蜘蛛を驚かすと いつもは、蜘蛛の巣をはていて、邪魔な存在のはずが 茄子の花が落ちてきて驚いて慌てているところを 想像してクスッとなったユーモアのある作品だなと思 いました。

「茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす(飴山寛)」  野菜の花は、総じて可憐であるが命は短い。茄子 も濃い紫の美しい花を咲かせる。蜘蛛も茄子の花に 見とれていたが、突然にこぼれたので、「なんとこ の美しい花の命は短いものなのだろうか」と驚きを 表しているとも感じる。

茄子の花   茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす  感情をもたない生物にまるで感情があるかのよう に表現するのは人間ならではであり、とても面白い ものであるとおもった。

  茄子の花こぼれて蜘蛛をおどろかす  茄子の花が蜘蛛の巣に落ちその時の揺れに驚く蜘 蛛を想像して笑ってしまいました。

  茄子の花こぼれて蜘蛛(くも)をおどかす               (飴山實) (感想)」「茄子の花こぼれて」から夏に咲いていた  きれいな紫の花が落ちて夏の終わりを感じ少し悲 しい気持ちになったのですが、「蜘蛛をおどろかす」 というところから虫の生き生きとした元気さを感じ 微笑ましい気持ちになりました。

 私は「故郷のひと雨ありし茄子の花」が気に入り ました。私もこの俳句を読んで故郷である栃木県の ことを思い出し、感慨深い気持ちになりました。今 は梅雨の季節なので家の周りの茄子の畑と情景が重 なりました

・好きな句   故郷(ふるさと)の ひと雨ありし 茄子の花 ・感想:この句をみたとき、すぐに地元の風景が思  い浮かんだ。それも、夏に雨が降っていて、自分  は家の中から外をぼんやり眺めて、音楽を聴いた  り、ただぼーっとしていたりしたことを思いだし  た。なので、少し地元が恋しくなり、いつかまた  戻って同じように過ごしたいと思った。

  故郷のひと雨ありし茄子の花  梅雨ごろから秋にかけて咲く茄子の花が故郷でも 雨が降り始め、咲くような時期になったと表現して いる俳句だと解釈しました。

  故郷のひと雨ありし茄子の花  通り雨で故郷での通り雨のことを思い出しました。 その時に茄子の花がとてもきれいだったことを思い 出したと思います。

選んだ句 故郷のひと雨ありし茄子の花 佐藤光夫 感想 僕の地元でも祖母が畑をしており茄子の花を  見るということは日常であったためこの句の情景  というものが鮮明に見えた感じがしたので特に目  に留まった。また、茄子の花ということで夏ごろ  であってもうすぐ秋が来るような季節だというこ  とをくみ取った。この句のように夏という中でも  終盤に差し掛かっている夏という季節感がとても  しみじみとした感じがした。

  故郷(ふるさと)のひと雨ありし茄子の花              (佐藤光夫)  故郷の畑で、雨が降った後に、茄子が花開き、夏 を感じさせる。濡れた土の匂いと野菜の育つ情景が 浮かぶ素晴らしい句とおもう。

  故郷(ふるさと)のひと雨ありし茄子の花              (佐藤光夫)  私はこの句を見て故郷ののどかな畑で茄子の花ま たは実が雨粒を弾いて太陽の光をきらきらと反射さ せて輝いている光景が思い浮かびます。初夏の訪れ を感じさせるとともに今日という一日に希望を感じ させてくれる句であると思いました。

故郷のひと雨ありし茄子の花 (佐藤光夫)  最近自分も、雨が降った時に色々とふるさとのこ とを考えたりする事がある。茄子の花は見たことは ないがこの句を読んで何となく想像が出来る。

 

【第5回目俳句感想文】
  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す  この句は、自分の気持ちとよく似ていると思い、 選びました。今年は、そこまで梅雨寒を感じません が、毎年、私は、梅雨が来て憂鬱になり、さらに、 梅雨寒でもっと憂鬱になっていました。その憂鬱で あるという気持ちが、この句とよく似ていると感じ ました。また、「歩き出す」という表現は、部屋か ら歩き出すという意味と、楽しい夏に向かって、憂 鬱だけど歩き出すという二つの意味が含まれている のではないかと、個人的には感じました。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典) <感想>  梅雨は雨がよく降りじめじめしているが、たまに 晴れたりと、天気が不安定で憂鬱になります。また、 気温、湿度もまちまちで、クーラーを入れないと暑 い時もあれば、逆に寒く感じる時もあります。さす がに暖房をつけるほどの寒さではないので部屋を歩 いて体を温めているのだと思います。この俳句の梅 雨寒、憂鬱という点で共感できたのでこの俳句を選 びました。

  梅雨寒の 部屋を憂鬱 歩き出す  雨が降っていてどこにもいけない憂鬱な気持ちを 共感できました。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す   (山岡敬典) 感想  この詩を詠んだ時に、「早く梅雨があけてほしい」 という気持ちがよく伝わってきてとても詠みやすく 印象に残りました。また、私は梅雨の時期に朝起き ると感じる肌寒さとジメジメ感により憂鬱な気持ち になりながら学校の準備をするために起き上がり部 屋を歩くことがあるのでとても共感できました。。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す  ・梅雨によって体が冷えるので外に出て動き出し  たいが、雨が降っているので出られないので、仕  方なく部屋で動き回る姿が想像できた。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典)  梅雨の雨でやる事もなくなりただ意味もなく部屋 を歩く。この時期にありがちで、自分もよくやって しまう現象です。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典) この句を読んだ感想は、梅雨の季節はずれの寒さに 気持ちが沈み歩いているのを想像できます。私は、 下関にきて初めての梅雨を迎えました。7月に入っ てからこの俳句にあるような寒さを感じ部屋の中で 気持ちが沈みました。はやく梅雨が明けて欲しいで す。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す 感想:この時期特有のむんむんとした空気、つまり、  憂鬱な空気を彷彿とさせる句だと感じました。

梅雨寒   梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す  この時期になると毎年来る、梅雨の時期で憂鬱な 気分の状態で過ごすのが思い浮かびます。自分も毎 年憂鬱な気分になります。早く梅雨あけてほしいで す。

梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典) ・理由    最近梅雨で寒く感じることもあり、また、天   気も雨の中テンション上がらず、今の自分に当   てはまったから.

 私が一番気に入った詩は【梅雨寒の部屋を憂鬱歩 き出す】です。  理由は梅雨という雨がたくさん降り気持ちが上が らない季節ですが、その梅雨の中でも最も寒い梅雨 寒は一番憂鬱といってもいいと思います。なので梅 雨が歩き出すといった表現がとってもわかりやすい と思いました。

梅雨寒(つゆさむ )   梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す( 山 岡 敬 典 )  梅雨のじめじめして日で、寒い部屋いると憂鬱が 部屋のなかで歩き回っているかのように感じられる ことを擬人法で表現している。私も、雨の日は何を するにもやる気が出ずらいことが多くこの俳句に共 感した。

梅雨寒(つゆさむ)   梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典) (感想)現実の世界でも梅雨でずっと雨の予報が続い  て自分もどこかお出かけしたいのにできなくて憂  鬱だったのでとても共感できるくでした。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す  梅雨の湿度が高い時期になり自分が憂鬱になり始 めたことを憂鬱歩き出すと擬人化で表現していると ころが面白いと感じた。また、季語で梅雨寒を使う ことで多くの情報を17文字の中で伝えていると思っ た。

 私は「梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す」が気に入り ました。今ちょうど梅雨の時期で高温多湿で過ごし にくい陽気な上に、出かけるにしても雨で気分も晴 れないし洗濯物も乾かないしという憂鬱なことを多 く感じている自分に重なったからです。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す  梅雨の不安定な気候に対する憂鬱という表現に共 感する。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す 感想;梅雨の陰鬱とした気分を「寒さ」というマイ  ナスの言葉を使っているため、こちらまで沈鬱に  なってしまいそうです。

 私が今回選んだ句は、   梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典) です。  理由は、とても共感できたからです。雨が降って いて寒い日は外に出ると濡れてしまって嫌になるし、 室内にいてもじめじめと蒸し暑く、気分も下がって しまうからです。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典)  梅雨寒という夏の季語がつかわれていて、梅雨の 季節の雨のせいで外に出られず、じめじめした感じ による憂鬱な気分がこの句につまっていて、梅雨を 感じられた。

「梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す」(山岡敬典) 感想  ちょうど梅雨の時期で、雨が降っているため外に 出歩けない憂鬱な気持ちが今の自分の気持ちと同じ だった。またコロナウイルスによる緊急事態宣言も 明け、やっと外に出歩けると思った矢先の梅雨の雨 なので、憂鬱となる気持ちも倍増してしまうように 感じる。  この俳句の歩き出すという部分において、梅雨で 憂鬱となり暇なために部屋の中を歩くのか、憂鬱だ から外に歩き出すのかどちらを指すのかを知りたい と思う。実際私は、雨で部屋にいるのが嫌になり外 に散歩しに出たことがあるので、この俳句と共通す る部分が多いように感じる。

梅雨寒  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す (山岡敬典)  今、ちょうど梅雨の中。いつも曇ってばかりいる ので気持ちは憂鬱。そんな、自分の憂鬱な気持ちを 表現してくれていると感じた。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す 感想  最近雨ばっかりでどこも行けなく憂鬱な気持ちだっ たのでこの句と心情が似てると思った。

俳句:梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す 感想:梅雨の時期の雨のせいで気持ちが晴れずに憂  鬱になって部屋の中に閉じこもって、部屋の中を  うろうろしている様子が思い描けれました。

  梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す(山岡敬典)  梅雨の雨が降って気温が下がった日、外出の用事 があるときは電車の中では他人の傘で靴が濡れたり、 車道で車が水たまりをはねて濡れるなど嫌な思い出 があります。 また、梅雨の時期は絶妙に寒いので電車ではまだ冷 房が付かずに人の熱でもわっとしている嫌な空気も 思い出します。  嫌々外に出る日を思い出し、憂鬱を感じました。

梅 雨 寒 の 部 屋 を 憂 鬱 歩 き 出 す ( 山 岡 敬 典 )  梅雨の時期は、意外と寒くて気分も晴れないので、 早く梅雨が明けてほしい

梅雨寒   梅雨寒の部屋を憂鬱歩き出す  梅雨の時期は私も憂鬱な気分によくなるので共感 した。

梅 雨 寒 の 部 屋 を 憂 鬱 歩 き 出 す  最近は天気が悪く涼しい日が多いです。憂鬱まで は感じないですが、この句を読んで少し寂しいよう な感じになりました。これを読んでいる今、曇りで す。

  明易(あけやす)し沖のしづけさ      汀(みぎわ)まで (神尾久美子)  私はこの句を選びました。  この句から、私は、夏の近い夜が明けた朝方に、 穏やかな波打ち際で朝日を見ている情景が浮かびま した。  夏の短い夜が私は好です。

  ステテコやつくづく脛(すね)をかじられし                (三枝眞)  僕も部屋衣によくステテコを履くので快適でなか なか脱げないといった雰囲気を共感できて面白いな と思いました。

  ステテコやつくづく脛(すね)をかじられし                 (三枝眞)  私がこの俳句を選択した理由は、自身がステテコ をよく愛用しており、頭の中に情景を思い浮かべや すかったからだ。また、ステテコの魅力でもある足 首上の長さと時々足首に擦れる布を“かじられる”と 表現したところにとても惹かれた。ステテコを着て いるときのステテコに対する想いや考え方が大きく 変わり、とてもいい俳句だと思った。

す て て こ ス テ テ コ や つ く づ く 脛 ( す ね ) を     か じ ら れ し   ( 三 枝 眞 )  私はいつも寝る時にはTシャツにステテコという 服装、そして、エアコンの冷房がしっかり体が当た るように、掛布団を上半身のみに掛け足を出して寝 るので、たまに脛を蚊にかまれてしまう。まさにこ の俳句と同じ事が起きているので、とても親近感(?) がわく。

  ステテコやつくづくすねをかじられし  猫を買ってる家でよく薄手の生地の服を甘噛みに 使われるのはあるあるで実家で4匹買っていたので すごく共感できた

「ステテコやつくづく脛をかじられし」  自分のステテコの膝部分が破れた事を思い出した

  ステテコやつくづく脛をかじられし(三枝眞)  ステテコは夏に履く、涼しいズボンである。  夏に聞く「ステテコ」は涼しく感じる。もちろん 履いても涼しい。  ステテコは風通しよく脛のあたりが弛いので、蚊 にさされやすい。  夏はステテコを履いて涼んでいるが、脛を蚊や他 の虫に刺されてしまって少し残念な気持ちが伝わっ てくる。

すててこ  ステテコやつくづく脛(すね)をかじられし                (三木眞) 感想  ステテコが活躍する時期に入ってきたので気になっ てしまった。今まで使ってたステテコは色あせてき たのでいっそユニクロで買ってしまおうかと思わせ る句だった。

好きな句:ステテコやつくづく脛をかじられし              (三枝眞) 感想:暑くなるにつれて丈の短いズボンを履きたくな  るが露出している脛のところは蚊などに刺されて  しまう。刺されないようにするには丈の長いやつ  を履けばいいがそうすると暑い。   このことは自分でも経験があるのでこの時期の  あるある話だと思いました。

句 ステテコやつくづく脛をかじられし 感想  ひらがなが比較的多い句だと感じた。ステテコと いう単語は名詞のはずなのにつくづくという言葉に 引っ張られて擬音語のように感じてしまい、面白い なと思った。ステテコから出ている部分だけ、何か 虫に刺されたのかと想像した。反対にステテコの裾 が脛のあたりでこすれ、かじられているように思え たのかもしれないと考えた。

  ステテコやつくづく脛をかじられし (感想)  この時期になると夜も暑くなり、短パンで寝るこ とが多くなった。  また、蚊の増える季節でもある為、朝起きたら足 が蚊に噛まれることも多くなった。

ステテコやつくづく脛(すね)をかじられし (三枝眞)  夏場に涼しげなステテコを履いていれば、裾の部 分が膝に当たりくすぐったくなる。地方にのやって は、蚊に刺されるではなく、噛まれるや食われると 言うそうなのでそれともかけて痒いと表現してるよ うに感じた。

  ステテコやつくづく脛(すね)をかじられし                (三枝眞)  ステテコの涼しげな情景は浮かんできてとてもお かしかったです。

  ステテコやつくづく脛をかじられし (三枝眞) 感想  夏になると自身もステテコをはいて日常生活を送っ ていることが多く、その際に蚊などの虫によくかじ られるということがよくあります。これはほぼ夏の 時だけなのでこの句を見たとき夏を連想しました。 このような短文でこれだけ鮮明に情景を連想できる という面白さを特に感じたのでこの句が気に入りま した。

  ステテコやつくづく脛をかじられし(三枝眞)  夏にどんどん近づき蒸し暑くなってきたため私も ステテコを履き始めた。  半ズボンを履き始め蚊によく足を刺されるようなっ てきた。  ステテコも虫も夏だな、自分にも身に覚えがある なと感じるため今回選択した。

  潮の香の生簀(いけす)ある店夏料理             (今井真寿美) 感想  夏料理は生簀の魚などを使うので潮の香と表現し ているが感銘を受けた。

「潮の香の生簀ある店夏料理(今井真寿美)」  ベトナムのニャチャンの海鮮料理店に行った際に 様々な魚介類が所狭しと並べられていた情景を思い 出します。鑑賞用で水槽に魚が泳いでいるような小 洒落た感じではなく、大きなバケツに入れてあるだ けでしたが、漁港のすぐ近くなので新鮮で品質は良 く、活気が溢れていました。

  潮の香の生簀ある店夏料理  生簀のある店に行き、そこで食べたのはさっぱり した夏料理を食べたと思いました。生簀があると言 うことは造りやなめろうなども食べたと思います。

  潮の香の生簀(いけす)ある店夏料理            (今井真寿美) 感想・・・まず塩の香の生け簀ときて普通の海水の 生け簀じゃなくて海のことを言ってるのかなと考え ました。なので夏の海の近くにある料理のでる店と して海の家を想像しながらこの句を読んで、昔行っ た海で腕全体をクラゲにさされた記憶がよみがえり ました。

  潮の香の生簀ある店夏料理  私は、店に生簀がありその中には旬の魚があり、 出てきた料理が活き造りで夏のように元気さを感じ る句と思いました。

  潮の香の生簀ある店夏料理 (今井真寿美)  海が見える高級料理店で俳句を考えている俳人を 想像しました。

  潮の香の生簀ある店夏料理 感想  この句を詠んで、海岸にある海鮮料理店の中で料 理を食べている人が頭の中に浮かびました。ここま で、イメージさせやすい句は素晴らしいと思います。 早くコロナが収まってくれれば、海鮮店に行ってみ ようと思います。

  潮の香の生簀ある店夏料理  この俳句にも書いてあるように、生簀のある店は 独特な潮の香りに包まれていて、すごく共感できま した。  また暑い夏に生簀からとられた新鮮な魚料理を食 べているところも想像できました。

  潮の香の生簀(いけす)ある店夏料理            今井真寿美  潮の香りがするいけすがあるということはすぐ近 くに海があるお店で、景色も良さそうです。海といっ たら季節は夏を思い浮かべます。そのお店で出され る夏料理がどんなものなのか、楽しみになる詩だと 思いました。

  潮の香の生簀(いけす)ある店夏料理            (今井真寿美)  このような店はテレビなどでしか見たことはない が、この俳句から匂い、視覚、味と3つで夏を楽し むことができると容易に想像でき、俳句に描かれて いるような店に行ってみたいという気持ちと涼しげ な感じが連想させられた。特に潮の香という部分が、 冷たく気持ちの良い夏の海を想像させ涼しげのある 感じを演出させている気がした。

  潮の香の生簀(いけす)ある店夏料理            (今井真寿美) ・魚を食べるときに、店内に生簀があるのとないの  とは雰囲気が違うと私は思います。  沖縄で食べた夏料理は、潮の香りがするところで  食べたことがあるからかいつもよりおいしく感じ  た気がします。

好きな句   潮の香の生簀ある店夏料理 感想  あと少しであの夏がくる。ついつい筆者の頭の中 には潮の香の生簀がある店で自らが夏料理を食べて いることを想像したのだろう。筆者の中では夏の楽 しみの一つとして夏料理を食べることがあるのだろ う。

夏料理   潮の香の生簀ある店夏料理  最初にある潮の香のところと最後の夏料理が全体 的に清涼感を引き立てていて、涼しくて気持ちのい い歌だと思いました。

滝 涼 し 蝶 吹 か れ 来 て 吹 か れ 去 り  この俳句の季語は滝である。この俳句からは、滝 の近くにいて、滝から水けを含んだ冷たい風が吹き 抜ける様子が想像できた

  雲の中滝かがやきて音もなし  涼しげできれいだと思ったから。

  雲の中滝かヾやきて音もなし(山口青邨)  雲の中に滝があるとはどういうことか。積乱雲の 様な雲で夏のひざしを受けて輝いているのだろうか それとも高所の滝が雲に覆われて幻想的な光景に見 えるところを書いているのだろうか  いろいろと考えられる作品で面白いと思った。

  滝落としたり落としたり落としたり(清崎敏郎)  落としたりと、3つ続くようすが珍しく、おもし ろかったのでこれを選んだ。「したり」の部分を、 いろいろ、考えをかえてよむとおもしろいこうぞう ということなのだろうか.

  滝落としたり落としたり落としたり  滝がどんどん落ちてくる様子が浮かんできた。落 としたりを繰り返すことで、水量の多さを感じた。

【選んだ俳句】 滝落としたり落としたり落としたり  清崎敏郎 【感想】  滝の迫力が感じられる句だと思いました。初めて 同じ言葉を繰り返し使っている句を見て驚き、面白 さと不思議さを感じました。そこでこの句を作った 人は同じ言葉を繰り返し使うことで何を表現したかっ たのか自分なりに考えてみました。まず目の前に滝 がある状況を想像してみました。すると、音を立て、 水しぶきをあげ落ちていく滝の迫力に圧倒させられ る人の姿が思い浮かびました。言葉は出ず、ただた だ目の前で落ちていく滝を眺めるだけの人の姿です。 この俳句には滝を前に圧倒される人の素直な気持ち が読まれているのだと思い、感動しました。同じ言 葉を繰り返し使うことで、読み手に面白さを感じさ せながら、雄大な滝の姿をも感じさせる俳句だと思 い、言葉で表現することの楽しさを感じました。

滝 落 と し た り 落 と し た り 落 と し た り ( 清 崎 敏 郎 ) 感想文:この俳句を見て「落としたり」という表現  が3回連続で用いられているのが珍しいと思った。  一見5/7/5の型に収まっていないように思われる  が数えてみると17文字あるため俳句として成り立っ  ていると思う。滝の上から次々と物が落ちてくる  ことからある程度水量の多い大きな滝であると推  測できる。

俳句:滝落としたり落としたり落としたり 感想:滝の自然に力強く落ちる様子に自然の大きさ  を感じたのではないかと思いました。

  滝落としたり落としたり落としたり(清崎敏郎) (感想)この句は「滝」と「落としたり」だけで構成  されていてとてもシンプルなんですが反復して同  じ言葉を入れることでその滝の激しく水が落ちる  ように感じることができました。

滝 滝落としたり落としたり落としたり(清崎敏郎)  この句の季語は「滝」で夏の季語です。  私がこの句を詠んで、同じ言葉を3回も繰り返す なんてチャレンジャーだなと思いました。しかし3 回「落としたり」と繰り返すことで水が流れ落ちて いく様子が想像できました。俳句は縦書きだけども し横書きだったらこのように思わなかったかもしれ ません。またこの句は人の目に映った景色をそのま ま詠んだだけのようにも感じますが、飾らないとこ ろが自然の景色に溶け込んでいるように感じました。

  滝落としたり落としたり落としたり(清崎敏郎)  この句は同じ語が3回繰り返されているのが特徴 的で、私はそこから一方向にひたすら流れている滝 の様子を感じ、同時に思考もクリアにされている感 じがしました。またその雄大さに大地に引き寄せら れている様な力強さも感じました。

  滝落としたり落としたり落としたり(清崎敏郎)  滝といえば水しぶきを上げながら轟々と音を立て る力強いイメージですが、対に作者は、滝の水がひ たすら延々と流れ落ちる様子を表現していると考え ます。

熱帯魚 しづかにもひれふる恋や熱帯魚(富安風生) 感想  わたしはこの俳句を聞いて最初に思い浮かんだ魚 はベタでした。ベタはペットショップでもよく見る ことができる観賞用の魚です。ベタは派手な見た目 と長いひれが特徴です。そのため瓶の中で独りぼっ ちのベタがいつか会えると思っているつがいのため にダンスの練習をしているような情景が浮かんでき てなんかしんみりしました。

し づ か に も ひ れ ふ る 恋 や 熱 帯 魚  熱帯魚の飼育が好きで熱帯魚に恋してそうな感じ がする。  それとも熱帯魚の動きが女性に似ているのかもし れない。  なかなか難しい言葉で情景を想像したり、気持ち を読み取ることが難しい句になっていると思う。

熱帯魚 しづかにもひれふる恋や熱帯魚 (富安風生)  鮮やかな熱帯魚が静かに鰭を振るしぐさを不安定 な恋心にたとえた句だと思いました

選んだ句「しづかにもひれふる恋や熱帯魚」 感想 熱帯魚特有の長いひらひらのひれや尾が別れ を惜しんでいる女性が領巾を振っている姿を連想で き、とても初々しく感じる。

熱帯魚 しづかにもひれふる恋や熱帯魚(富安風生)  富安風生は、熱帯魚と恋をかけて、鰭をふる熱帯 魚と領巾を振るをかけていて、こんなに短いぶんで、 たくさんの背景を想像することができ、ユーモアの ある作品だなと思いました。

  しずかにもひれふる恋や熱帯魚 感想  なにも音を立てずにただ泳いでいるだけの熱帯魚 ですが、ずっと見ていると自然と吸い込まれそうに なるほど見入ってしまいます。私もそんな経験をし たことがあります。この見入ってしまうという行動 をこの詩では、恋と表現しているように思えてとて も面白い詩だなと感じました。

選択した詩:しづかにもひれふる恋や熱帯魚 感想:電子辞書で調べると「領巾振る」という言葉  は、女性が別れを惜しんで着物の裾を振るしぐさ  と書かれていて、「鰭振る」と掛かっているたの  かと感動しました。水槽の中の熱帯魚が水面を掻  き立てずに静かに泳ぐ様子が、女性の物静かな所  作と重なり風流だなと思いました。

  しづかにもひれふる恋や熱帯魚  熱帯魚はネオンテトラとベタを飼っていました。 ネオンテトラは集団で泳ぎ、規律正しい遊泳ハーモ ニーを楽しむことができます。ベタは別名闘魚と呼 ばれており、ほかの魚と同じ水槽に入れると喧嘩し てしまうので鉢の中に一匹だけ入れて飼っていまし た。優雅にひれをたなびかせる様は婀娜っぽかった です。 P.S. 冷たい熱帯魚という映画を最近見ました。

選んだ俳句: 熱帯魚 しづかにもひれふる恋や熱帯魚(富安風生) 感想:この俳句から私が感じたことは、熱帯魚を題  名にし、魚への恋心的なものと、自分の中にある  秘めた他への恋心を「ひれふる」という言葉を使っ  て同時に歌っている俳句であるように感じました。

熱帯魚   しづかにもひれふる恋や熱帯魚 (富安風生)  揺らぐ気持ちを、水中をゆらゆらと泳ぐ熱帯魚と 掛けているのがお洒落だと感じました。夏の雰囲気 を感じつつも、爽やかで慎ましく静かな恋をしてい るのではないかと考えられ、短くても情熱的な俳句 だと思いました。

  しづかにもひれふる恋や熱帯魚 感想  私の中で春、夏、冬はそれぞれ違うイメージを持 つ恋があると思う。春は出会いの季節であるため春 らしい爽やかな恋、夏は暑さに負けないような恋、 冬は寒さを補う恋を連想する。  この詩はひれふるという言葉が女性らしい妖艶な 雰囲気と魚のひれを表しているようで、とても素敵 に感じたため、この詩を選んだ。

好きな句1つ目: しづかにもひれふる恋や熱帯魚 感想: 暖かくなると熱帯魚たちが過ごしやすい気  候になっていることが分かる。私は水の中にいる  熱帯魚を見ると涼しく感じる。熱帯魚は恋を別れ  惜しんでいるように感じとられて切なく感じた。 好きな句2つ目: べら釣の小舟がゆれて島ゆれて 感想: べら釣りをするために小さな舟で海の上に  いることが分かる。潮の流れなどによって舟がゆ  れてその先に見える島が揺れているように見える。  夏の季節に釣りは最適であり、私もこの俳句と同  じように舟に乗ってべら釣りに行って揺られたい  と思った

「べら釣の小舟がゆれて島ゆれて(松本たかし)」  べらによる引きで船がゆれるとは考えられないの で、船が揺れるほど大量なべらが釣れたことを表し ているのでしょうか。また、大漁な釣果に喜び騒ぎ 船が揺れているのか。”島ゆれて”は船が揺れること で島が揺れているように見えることを表現している のかもしれない。魚突きの際にべらは大量に見かけ るのであまり興味を持つことがありませんでしたが、 塩焼きにして食べてみたら淡泊で癖がなく意外とお いしかったことを覚えています。

べら釣   べら釣の小舟がゆれて島ゆれて (松本たかし)  夏の晴れた海でべら釣りをしていて、波によって 小さく船が揺れていてあたかも船が揺れているので はなく周りの景色が揺れているという錯覚を釣り人 が体験しているというイメージが思い浮かびました。

べら釣   べら釣の小舟がゆれて島ゆれて(松本たかし) 感想:小舟が小さく波に合わせて揺れ、連動して自 分の視線も揺れるというところから自然と一体化し て釣りを楽しむ長閑な情景であることを感じ取った。

  ベラ釣の小舟がゆれて島ゆれて(松本たかし) 感想:小舟から島を眺めながら釣りをするのどかな  風景が浮かんでくる。

  べら釣りの小舟がゆれて島ゆれて  釣りをしていて船が揺れるたびに視界もゆれてま るで島が揺れているように感じている。

べら釣(つり)   べら釣の小舟がゆれて島ゆれて (松本たかし)  ベラ釣りしながら、舟の上で寝そべって、自然を 満喫している様子が伺える。

  べら釣の小舟がゆれて島ゆれて  夏にべら釣りに出かけた舟が波に揺られ、その波 がまた島の岸にあたる様子を思い浮かべ、風情があっ ていいと思った。

・私が選んだ俳句は べ ら 釣 の 小 舟 が ゆ れ て 島 ゆ れ て ( 松 本 た か し ) という句です。 (感想)波で船が揺れて、それにより島も揺れて見  える船の上でまったりとベラ釣りをしているよう  に感じ、穏やかな感じがいいなと思いました。

べ ら 釣 の 小 舟 が ゆ れ て 島 ゆ れ て  この句はべらを釣りに小舟で出て、しけた海の中 で自分が揺れると島が揺れるれて見えるのが、伝わっ てきて共感できた。また、ちょうど昨日べらをいっ ぱい釣ったのでベラに反応して、選んだのかもしれ ない。

  べら釣りの小舟がゆれて島ゆれて  べら釣りもやりたいと思う。煮付けにしたいです。

  ベラ釣の小舟がゆれて島ゆれて  ベラをつるための船に乗って釣りにいったら、そ の波で、まるで、島がゆれているように見えたと解 釈しました。一回やったことがあるので、情景が思 いやすく、良かったです。

  ベラ釣りの小舟がゆれて島ゆれて  乗っている小舟が波に揺られ自分が揺れているの で島も揺れているように見えるといった俳句だと思 いました。早くコロナ騒動が終わって私も釣りなん かしに外に出たいです。

べら釣(つり)   べら釣の小舟がゆれて島ゆれて (松本たかし) (感想)べら釣りのとき舟がゆれたことで自分もゆれ  て島がゆらゆらゆれている光景がとてものんびり  していてとてもいいなと思った。

  べら釣の小舟がゆれて島ゆれて (松本たかし)  この句は、船に乗って楽しく釣りをしている様子 が想像できる。私自身、釣りをすることがあるが、 船に乗って釣りをしたことはない。この句を見て、 船に乗って一日中、釣りをしてみたいなという気持 ちになった。

べら釣(つり)   べら釣の小舟がゆれて島ゆれて 僕はこのうたを見たとき、天気のよい沖に一隻の小 舟が浮かんでいる様が思い浮かび、そして岸(浜)か ら舟をみてる人には日射しと波の動きで近くの島も 揺れ動いているようにみえたのでは?などと思いま した。  しかし、それよりも僕はべら釣りの「べら」の部 分に引っ掛かりました。北海道出身なのでそもそも ベラはいないのですが、どちらかというと外道、狙 う人はいないというイメージの魚でした。この舟を だしてタイトルにつくほど狙う魚というのがあまり 納得いきませんでしたが、調べてみると関西あたり では食用魚らしいです。これはうたをよんだ人の出 身地によって同じ景色で同じ内容をよんでもタイト ルは変わっただろうなと思いました。

 

【第6回目俳句感想文】
  七月の海は紺青(こんじょう)色深む              (松岡君枝)  七月の海といえば海水浴などで天気の良い日に見 る透明感のある青さをイメージする。ところがこの 俳句はすこし違うようだ。紺青とは暗い青のことで ある。このことから夕方のようにあたりが暗くなっ てきてからのことだろうか。それとも雨の日のよう な感じだろうか。  様々な風景が頭に思い浮かぶ。

  七月の海は紺青色深む  私がこの俳句を選んだ理由は、他の詩の中で一番 表現を気に入ったからです。  私は、海が好きですが、個人的に一番海が綺麗な のは、7月から8月の夏の海だと考えています。冬 の海よりも、太陽が反射して、キラキラしていて、 さらに、海の色が一番青くなると思います。そして 7月から8月は、どんどん海の色が濃くなって綺麗 な紺青色になるような感じがします。そのため、こ の俳句は、自分の感覚と似ていると考えました。  以上のことから、「七月の海は紺青色深む」を選 びました。

  七月の海は紺青色深む  この句を読んで、海開きが始まった綺麗な青い海 が浮かび上がってきました。

  七月の海は紺青色深む  夏の快晴の海が目に浮かぶようで気に入った。

  七月の 海は紺青 色深む 松岡君枝  「紺青」という表現にとても深く感じた。深い青 というイメージが良く頭に浮かんだ。自分は、「紺 碧の艦隊」という作品を読んだことがある。潜水艦 が活躍するという内容である。潜水艦は深い海を進 む。紺色は、深い色だということが良く分かった。

 私は「七月の海は紺青色深む」がいいと思いまし た。今自分が住んでいるアパートの目の前に広がる 海も季節が進むごとに色が変化していくのを感じて、 季節の移り変わりを実感できたからです。特に最近 は冬が寒くなかったり夏が暑すぎたりと昔のような 四季ではなくなってきているので海の色だけは昔と 変わらずに四季で変化して欲しいなと感じました

  七月の海は紺青(こんじょう)色深む                (松岡君枝)  もう7月である。あまりの月日の速さに体も心も 追いつかない。作者は7月の海は青いと詠っている が下関の海は残念ながら今のところ青くはない。度 重なる雨により、海は濁ってしまった。さながらミ ルクティーのようである。人間界も、響灘も、当面 の間は行き先不透明といったところだろうか。お魚 の皆さん。いっそのこと海響館にでも避難しません か。なんでもあそこは3食昼寝付きらしい。それに 今ならちびっ子にアクリル板をたたかれることもな い。この長くて憂鬱な嵐が過ぎ去れば伝染病のふり して海に返してもらえばいい。  いつも通りの暑い夏が来ることを祈る。

  七月の海は紺青色深む (感想)  水大に入ってから海を毎日見るようになった。と りわけ晴れている日の夏の海は青がきれいで、底ま で見えるので海が若干紺色を帯びている情景が目に 浮かぶ。

  七月の海は紺青色深む  7月は梅雨が明けて海が濁ることが減り、これを 書いた人は青く見えたと思います。

  七月の海は紺青色深む (松岡君枝)  最近いっつも原付で七曲りを通るときに天気が良 い時はとても鮮やかで濃い青、正に紺青に共感しま した

  七月の海は紺青色深む  音がいいと思ったから。

  七月の海は紺青色深む  七月の海の様子を美しく表現していて気に入った。 今年は、泳げず、ながめるだけで終わりそう。

  水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々) 感想  水無月とは新暦で6月下旬から8月上旬にあたり、 丁度梅雨の時期です。この時期は湿気が多くべたつ き暑く感じます。そこでクーラーを入れると次は寒 くなってしまい、どうしようもない気候という風な ニュアンスがある俳句だと思い、共感できたため、 この俳句を選びました。

好きな句:水無月やここに暑さも涼しさも 感想:毎年、死にそうなくらい暑くて夏よりも冬の  ほうが良いと思うが、そんなことを思っている時  に突然風に吹かれると、丁度良いくらいの涼しさ  になる。そうすると、夏も案外快適だなと感じて  夏を好きになるなと改めて実感させられることを  思った。

    水無月(みなづき)   水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々)  7月の初めは、暑さも涼しさも感じられ、快適に 過ごしている様子が伺える

「水無月やここに暑さも涼しさも」  本格的に暑くなってきた時期だが、雨が降った後 の気温が少し下がった様子も感じることができる。

  水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々)  毎回過去の私に重ね合わせている感じがするが....  私は高校1年、2年の時は夏休みをすべて使って サマーキャンプのスタッフをしていた。  奄美の自然を相手に日本全国、世界各国から参加 する子供たちに奄美の自然を体験させ、都会では絶 対に体験できないことを多く盛り込んだキャンプで ある。  6月にはその準備で島の様々なところを回る。今 年はここに連れてこようとか、ここは今年は危なそ うとか、、、その中で、自分で船に乗って無人ビー チを探しに行く機会も多くあった。船上では、灼熱 の太陽のせいでかなり暑いが、いい感じのビーチを 見つけ、錨をおろして飛び込むときの幸福感はこの 上ないものがある。  陸路がなく、だれもいないビーチの少し沖でボー トを浮かべ、泳いでいるときは独り占めできるこの 幸せな世界が最高だった。

  水無月やここに暑さも涼しさも 感想  水無月は、6月を表し梅雨の時期です。この時期 は、湿気で熱くなりますが、時々涼しくなる時があ ります。それを的確に表しており、素晴らしい句だ なと思いました。

  水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々) ・水無月は6月の旧名であり、6月は暑くもあり夜は 肌寒くなったりするので、そのことを詩が忠実に伝 えていて、俳句で気温を感じることができた。

  水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々) ・今の6月にあたる水無月に夏の始まりを告げる暖 かな風を感じる日もあれば少し肌寒い日もあるといっ た様子がついこの間まで自分も感じていたことなの で共感できる句でした。非常にシンプルで軽く口に 出して呟いたようなため息のような哀愁も魅力的で あると感じました。

 私が一番気に入ったのは、【水無月やここに暑さ も涼しさも】です。  理由は六月は月の前半が涼しく後半が夏に入って 熱くなるというイメージがあるのでこの詩どうりだ と思いました。そして詩の語呂も言いやすく覚えや すいので気に入りました。

  水無月やここに暑さも涼しさも 感想  水無月(6月)は、春の終わりでもあり、夏の始ま りでもある時期で、微妙な蒸し暑さがありつつも、 ときおり涼しい風が吹き込んでくるというような情 景が頭の中に浮かびました。私もこの詩に共感しま した。

選択した詩:水無月やここに暑さも涼しさも 感想:水無月、つまり六月は日中は暖かく、夜は寒  い。布団を夏物に変えるか、冬物のままでいいか。  体温の調節にはいろいろな悩みを抱える時期だと  思います。筆者は、皐月(五月)という過ごしやす  い月が過ぎ、少しづつ暑くなっていく季節にやや  うっとうしさを感じながらこの詩を読んだのかも  しれません。でも、きっと縁側で寝ころびながら  思いついたんだろうなという、穏やかな日々を同  時に感じられる詩だとも思います。

  水無月やここに暑さも涼しさも 感想:水無月の曖昧な季節感を繊細に表現している  と思います。

  水無月やこゝに暑さも涼しさも (松瀬青々)  6月くらいの梅雨の時期で、夏に入りかけなので、 暑さもあるが、それでも涼しくもあるという季節の かわり目を感じた。

  水無月やここに暑さも涼しさも <感想>  7月は夏らしい物凄い暑さの日もあるが、逆に上 着が欲しくなるような寒い日もあるためこの詩に共 感した

俳句:水無月やここに厚さも涼しさも 感想:水無月は春が終わり暑さが増してきているが、  まだ完全な夏は到来していないため涼しさも少し  残っていると私は思いました。

水 無 月 や こ こ に 暑 さ も 涼 し さ も ( 松 瀬 青 々 )  水無月は6月のことで梅雨の時期です。夏に入り かけて暑さが増すなか、雨が多い時期だからこそ、 涼しさも感じられるんではないかと思いました。さ らに、「ここに暑さも涼しさも」と同時に対義にな るような言葉を入れることによって梅雨の独特の雰 囲気を表現しているところが私はとても好きです。

  水無月やここに暑さも涼しさも 感想:6月の蒸し暑さと雨の涼しさを表現している と思います。

選んだ俳句:水無月   水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々) 感想:6月の気温の感じることを完結に詠んでいる    ところに惹かれこれを選びました。    「水無月や」の「や」としているところも呼    びかけ表現の様でこれに少し好感をもてまし    た。

  水無月やここに暑さも涼しさも  6月はまだ夏ではなく涼しい時もあるがかといっ て暑く無いわけでもないといった俳句で季節の変わ り目の中途半端な時期で過ごしにくいと思いました。

水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々) (感想)  梅雨で雨がよく降る時期なのに、水が無いと書く 水無月を夏なのに暑い時間もあれば寒い時間もある など水無月に対する矛盾を面白く表現している

  水無月やここに暑さも涼しさも  私はこの句を選びました。  この句は6月の特徴をよく表していると思ったか らです。  6月は暑くなり始めたての時期であり、また梅雨 の時期もかぶるため、日により暑さ、涼しさが変化 する月です。  個人的に雨は嫌いですが、過ごしやすい月だと思 います。  今の時期は雨が多くて大変ですが、はやく梅雨が あけてくれることを祈っています。

  水無月やここに暑さも涼しさも (松瀬青々)  この句を選んだ理由は、ここ最近の状況をかなり 的確に当てているなと思ったからである。もちろん この句を詠んだ時にたまたま同じような状態だった のだろう。しかし、最近は六月でも気温三十度を超 える日が多く、三十五度を超えている場所も少なか らず存在している。逆に、雨が続くと気温が二十五 度を下回るときがあり、まさにこの句と同じような 状況ではないだろうか。  次の句は自作の句である。   梅雨明けか晴れが続いて滝の雨  これは、少し前の気持ちを詠んだ句である。梅雨 のわりに雨が少ないなと思い続けて、このまま梅雨 が明けるのではと思っていたが、ここ最近の豪雨で 被害が出ている地域もあったりと異常気象が非常に 多い。幸い、私の周辺は被害に見舞われていないの だが、福岡県南で大きな被害が出ている。また、も う少し豪雨に注意と言われているので決して晴れが 続いてもこのまま梅雨明けするだろうと思うことな く、気を引き締めて生活していきたい。

  五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉) 感想  最上川は日本三大急流の一つであり、梅雨の時期 に水かさがまし流れが早くなったことを示しており、 今の時期と重なるなと実感した。

五月雨(さみだれ、さつきあめ)   五月雨をあつめて早し最上川(芭蕉)  この句の季語は「五月雨」で夏の季語です。  私はこの句を詠んでどこかで聞いたことがある気 がしました。作者を見ると松尾芭蕉とありびっくり しました。調べてみると『おくのほそ道』に登場し ているくらい有名な句でしたが、このようなことに 関心がない私は初めて知った事実でした。  最上川は山形県を流れる日本で一番長い川で日本 三大急流のひとつです。この川に五月雨が集まって さらに急流となっている様子を詠んだのでしょうか。 ひとつ気になるところは「早し」という表記です。 現代語であれば「速し」と書くのが普通な気がしま すが、古語のためか「早し」となっているのでしょ うか。  私個人的に、松尾芭蕉と聞くともっと意味不明な 句を詠むのかと思ってしまいますが、意外とシンプ ルな句を詠む人なんだと思いました。

・私が選んだ俳句は   五月雨をあつめて早し最上川(芭蕉) という句です。 (感想)  資料の中で一番想像しやすかったので選びました。  皐月(五月)雨というのは梅雨のことかと思い、そ の雨水が最上川に集まり流れが速くなっている情景 が浮かび、正に今の筑後川のような状態だと共感し ました。

  五月雨をあつめて早し最上川  とても有名なものであり、何度も目にする機会が あったが、雨で流水量も流速も大きくなった最上川 の様子が手に取るようにわかって面白いと思う。ま た、雨水が流れ込んでいる様子を、『あつめて』と 表現しているので、主語が最上川になるという点も 面白いと思う。

  五月雨を あつめて早し 最上川  最上川ではないが、近所の川も最近似たような光 景になっているので親近感が湧きました。

好きな句   五月雨を集めて早し最上川。 感想  五月雨は時には人間に牙をむく事もあるが自然に とっては恵である。雨が降ると山から川に水が入り、 そのたびに川が勢いよく流れる。まるで喜んでいる ようだ。人間は自然の中で生かされている存在だと 実感する。とてつもない自然の力に。

  五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉)  奥の細道で有名な松尾芭蕉の句です。  梅雨に降り続く長い雨のことを五月雨といいます。 長く降り続いた雨が、最上川に集まってきて、流れ が早い様子が伝わってきます。雨が降り続けると川 の水かさが増し、流れが早く、急になるのは想像し やすいです。

  五月雨をあつめて早し最上川  梅雨が始まって雨が降り川の中流域以降に間もな く合流する、または流れが速くなっていく様子が分 かりやすい句だと思います。規模は少々小さくなる のですが自分も最近近所の河川が増水して濁った水 が流れるという状況に遇いました。また、雨が止ん だ後しばらく水量が減らない様子を見て常に早くは ないことに気付きました。

  五月雨をあつめて早し最上川  五月雨というところで雨が降っているのはわかる のですが、集めて早しというのが僕は川が増水し、 流れが早くなっていると思ったのですが、本当にそ うだとしたらとても淡々と災害の様子を書いている のだなと思いました

  五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉)  日本三大急流であり山形県を流れる最上川が五月 雨(梅雨)に入り増水し流れが速くなっている様子を 表していると考えます。また、はやいという漢字が 「早い」となっていることから作者は、五月雨が明 け季節が変わりゆくときの経過を早く感じていると 思います。

  五月雨をあつめて早し最上川  とても有名なのでこれはとても好きです。

  五月雨をあつめて早し最上川  最上川の流れを五月雨を集めたかのようだと表現 することで激流の強さを読み手が鮮明に想像出来る ようにしていると感じた。また、ネットで調べてこ の俳句は松尾芭蕉自身が経験した最上下りに基づい て詠んだものだと知ったことで俳句にするほど印象 に残ったことだったと思い、そして相当な激流だっ たのではないかと考えた。

  五月雨をあつめて早し最上川(芭蕉)  五月雨を集めているから、最上川は水の流れが速 いと思った。

  五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉) 感想  小学生のころこの俳句について調べ、発表したこ とを思い出した。調べたものの、結局最上川にはど のような特徴があるかわからないので、コロナが収 まったら、時間のある時に最上川に行って確かめた いと感じた。

五月雨(さみだれ、さつきあめ)   五月雨を集めて早し最上川 (芭蕉)  梅雨の時期に降り続いている雨の影響で最上川の 水の水位が増えたことと流れが速くなったことが伝 わりました。

五 月 雨 を あ つ め て 早 し 最 上 川  この俳句の季語は、五月雨である。この俳句は、 五月雨が長い間降り続け、最上川の水位が増えすご い勢いで流れている風景が浮かぶ。

五月雨 五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉) 感想 私は、この句について昔勉強したことがある。ほと んどの学生が過去に聞いたことはあるぐらい有名だ ろう。これは、作者自身が実際に雨で増水した最上 川を川下りした経験に基づく句であるそうだ。俳諧 師と聞くと、非常に真面目なイメージがある。だが、 この句を知ったときにアグレッシブな人だなと思っ た。

  五月雨をあつめて早し最上川 ( 芭 蕉 )  一番夏のような感じのいいのでこのような句にし ました。一番有名ですよね。

  五月雨をあつめて早し最上川 (芭蕉) 感想・・・有名な俳句だったので、俳句を選ぶため 一個ずつ読んでいたとき見つけてちょっとだけテン ションが上がってしまいました。最近雨が多くて、 様々なところで水害が起きているニュースを聞くの で、この俳句みたいに趣きを感じられるくらいの降 水量なら良いになと思いました。

  五月雨をあつめて早し最上川  私の出身地の山形県の句です。思わず目に留まり ました。  正にこの句の通り、降った雨が山を伝って川に流 れ出て、美しく力強く水が流れる最上川の景色を思 い出しました。芭蕉が感動したこの川をもう一度見 たいなあと思いました。

  五月雨をあつめて早し最上川  五月雨の今の時期、近くの西田川もいつもは穏や かだが、荒々しく流れているのを思い出した。

五月雨 さみだれや大河は音をたてずゆく (須藤常央) 五月雨の季節ではあるが大きな川は水位がいつもと 変わらず、いつも通りの静かな音を保っているよう な情景が思い浮かびました。

【俳句】 さ み だ れ や 大 河 は 音 を た て ず ゆ く ( 須 藤 常 央 ) 【感想文】  五月雨は梅雨時に降る雨のことで大河は音を立て ずに流れていることからとても激しい雨が降ってい る風景が想像できる。私の地元鹿児島も今年の梅雨 は死者が出るほど雨が激しいのでとても心配である。 早く梅雨が明けてほしいと思う。

「港出てヨット寂しくなりにゆく」 後藤比奈夫 感想  この句からは、どのような情景を用いられている かが鮮明に想像することができ港を出て大海原に乗 り出していくという壮大な雰囲気がとても気に入り ました。寂しくなっていくとあるが、これは大きな 海にポツンと一隻のヨットがあるというように連想 できその風景もとても趣があると感じました。最後 にこの句は、壮大さや趣深さをとくに感じられるも のだと思いました。

俳句:港出てヨット淋しくなりにゆく(後藤比奈夫) 感想:親しんだ場所を離れて成長することに不安と  寂しさを感じているのではないかと思いました。

  港出てヨット淋しくなりにゆく(後藤比奈夫) 感想:広く大きな海に小さなヨットで出ていく姿が  目に浮かぶ。不安や緊張、期待を感じているのだ  ろう。

ヨット   港出てヨット淋しくなりにゆく (後藤比奈夫)  このヨットを今の一人暮らしをしている、自分に 重ねた。やはり、元いた場所から旅立つというのは 淋しさがある。そんなことをこの詩から感じた。

  港出てヨット淋しくなりにゆく  この歌では、港でヨットを見送る人とヨットに乗っ ている人の両方の淋しさを歌っているのではと私は 感じ、どちらの人物の感情も想像できて面白いと思 いました。

  ヨットの帆下ろし夕陽を片づける(太秦米良夫)  この俳句を詠むと、夕方に港に戻ってきて、ヨッ トの帆をたたんでいるときに、水平線に浮かぶ夕陽 が海に沈む様子がまるで海によって片付けられるよ うに見えるという様子が頭に浮かんでくる。

選んだ句「ヨットの帆下ろし夕陽を片づける」 感想:夕日に向かって進むヨットが帆を降ろしたし  た際に夕日が隠れる様子が鮮明に思い浮かべるこ  とが出来る。

  ヨットの帆下ろし夕陽を片づける 感想  私は高校1年生のころにヨット部に入部していて、 ヨットの練習が終わり港にヨットを揚げ片づけてい る時に何気なく西を見てきれいなオレンジ色に染まっ た空に向かって「ああ、すごく眠いなぁ」とつぶや きながら水分補給していたのがこの句を読んで思い 出した。私にとっての懐かしい思い出の句だった。

「ヨットの帆下ろし夕陽を片付ける」(太秦米良夫) 感想  私が過去にヨットに乗っていたこともあり、この 俳句が最も好ましく思った。ハーバーに戻り、解装 し帆を下ろしている後ろで夕陽が沈んでゆく情景が 頭に思い浮かび、とても綺麗に思った。早く部活が 再開し、ヨットに乗れる日が戻ってきれば良いなと 思う。

ヨットの帆下ろし夕陽を片づける 漁を終えて暗くなる前に片付けをしてふと眩しくて 横を見てみると、水平線に太陽が沈んでいくのに見 とれるという今日も一日頑張ったのが伝わるように 感じました。

  ヨットの帆下ろし夕陽を片付ける(太秦米良夫)  私がこの俳句を選択した理由は、海から戻り、一 仕事終えたヨットの帆が片づけられている一瞬と、 一日の仕事を終えた太陽が夕陽へと変わり水平線へ と片づけられている一瞬をうまく切り取り、掛け合 わせていることにとても感激したからだ。ただ、夕 陽が沈む瞬間やヨットの帆をたたむ瞬間を切り取る のではなく、その二つを少ない文字にうまくまとめ ている技術にも惹かれた。

 七夕(たなばた)、星祭 1)人の声今美しく星祭る (深見けん二) 2)願うこと少なくなれり星祭 (品川鈴子)  7月7日の七夕が最近あったが毎年のように雨が ふってしまうのがとても残念に思う 2こめの俳句 では、才の高い人が七夕に願いをしているような俳 句でとてもほっこりしました。自分も何が願えばよ かったと思う俳句だった。

  人の声 今美しく 星まつる  この句を読んだときに人がたくさんにぎわってい る祭りの風景が浮かび上がってきて、祭りにいきた いと思った。

「人の声今美しく星祭る (深見けん二)」  「人々の願い事」を「人の声」と表しているのだ ろう。「願い事」と表すよりも「人の声」と表すこ とで、その人の心の底からの願いが声となり、人の 心情に訴えかける効果があるように感じる。  多くの人を魅了したであろう映画「君の名は」の キャッチコピーにピッタリだと感じるような素晴ら しい俳句である。

  人の声 今美しく 星まつる  私がこの俳句を選んだ理由は、家族などでキャン プや自然がきれいな場所に行き、きれいな星空をみ んなできれいだなとみている背景が見えたからです

  人の声今美しく星祭る (深見けん二)  深見けん二さんは、星を見ながら人の声を聴いて いていろいろな情景を想像することができました。  私は、人の声の持ち主は妻なのかなと思いました。

  人の声今美しく星祭る (深見けん二)  人の声とはたぶん願い事のことだと思います。そ れがたくさん集まりきれいな天の川のように空に輝 くと感じて、素敵な俳句だなと思いました。

  人の声今美しく星祭る  人が喋っている様子は星のように輝いてみえる。

  人の声 今美しく 星まつる  私がこの俳句を選んだ理由は、家族などでキャン プや自然がきれいな場所に行き、きれいな星空をみ んなできれいだなとみている背景が見えたからです

  人の声今美しく星祭る (深見けん二)  星を見上げる人たちのにぎやかな声が、夜空の星 をより一層美しく輝かかせていることを表現してい ると考えた。最近の世の中では、星空も見ることも 少なくなりつつある。そのような、誰かと星空を眺 める体験もしてみたいと思いこの俳句を選んだ。

  人の声今美しく星祭る  七夕の時期のお祭りで、にぎやかな人の声がして 楽しそうな雰囲気があって、花火で浴衣姿がきれい で美しいという感じがした。

  願うこと 少なくなれり 星祭  理由は、七夕を星祭と表現したことがすごいと思っ たし、願うこと人が減っていることもわかったから です。

  願い事少なくなれり星祭  七夕などの願い事が多くなると思ったが、少なく なると書いていて、疑問に思いました。

俳句:願うこと少なくなれり星祭 (品川鈴子) 感想:幼いころに七夕が近づくと短冊に願いを書い  ていたが、大人になるにつれていつしか七夕すら  気にしなくなったと感じた。

  願うこと少なくなれり星祭  この俳句を詠んで感じたことは、七夕で短冊に願 い事を書いていたりした小さい頃とは違い今この歳 になると願いもしなくなり、これが成長なのかも知 れないと感じました。

  願うこと少なくなれり星祭 (品川鈴子) (感想)大人になっていくにつれて願い事が少なくなっ  たというところに共感を持ち、自分も年を取った  ことを感じさせられました。また七夕を星祭にす  ることで大人びた印象を感じ取ることができまし  た。

俳句:願うこと少なくなれり星祭  自分がまだ小さい頃は、七夕になるとスーパーや 図書館に笹が置いてあり、必ずと言っていいほど短 冊を書きに行き、願いごともたくさんあったのです が、大きくなるにつれて興味すらなくなっていって たので、今年は願いごとをしてみてもいいなと思い ました。

  願うこと少なくなれり星祭 (品川鈴子)  この句を詠んで感じたことは、若いうちは、七夕 の日にお願いごとをするが年をとるにつれて願い事 をしなくなるんだと改めて感じました。私も小学生 の頃は、七夕の日になると短冊に願い事を書いて笹 に付けていたのですが、中学生の頃になると七夕に お願い事をすることが減っていきました。

七夕、星祭   願うこと少なくなれり星祭  この前七夕で久しぶりに願い事をしたのでこの詩 を選びました。いざ願い事を考えてみると意外と思 いつかず、結構時間をかけました。イベントを通し て自分を見つめ直す良い機会でした。

句   願うこと少なくなれり星祭 感想  作者の年齢が高いとすると、年齢を重ねていくう ちに夢の幅が狭まり七夕に願うこともなくなってき てしまった様子を思い浮かべることができた。星祭 というのは夜空に広がる星が祭りのように賑わって いるように見えたのではないかと思う。七夕の人に 夜空を見上げた際に、星のように多くあった願いご とも少なくなったと作者がしみじみとしている情景 を考えた。

選んだ句:願うこと少なくなれり星祭 感想:歳を重ねるにつれて星に願いを伝える回数も量  も減っていくことが表されていると思いました。

  願うこと少なくなれり星祭 (品川鈴子)  小さい頃は七夕の季節に笹に願い事を書いても、 紙1枚では足りないと思っていました。しかし、中 学、高校と年齢が増すにつれて【志望校に合格でき ますように】としか書けなくなりました。  今では、街の中の七夕の笹をみかけても、書こう とすら考えません。書く内容が思い浮かばないから です。  目標がないともいえます。  俳句の作者と解釈は違うかもしれませんが、大人 になるにつれて願いが少なくなる、寂しい気持ちに 襲われました。

  願うこと少なくなれり星祭   (品川鈴子) 感想  この俳句を詠んだ時に、毎年訪れる七夕の日に筆 者が年を取るにつれて願い事が減っていくこと悲し く思い夜空を見上げている情景が思い浮かび、少し 寂しい気持ちになりました。また、私自身小さい時 に比べると願い事が減ってるなあと思うので、とて も共感しました。

  願うこと少なくなれり星祭 (品川鈴子) の句はふたつの受け取り方が出来ると思います。現 代になって、祭りごとに興味を失い祈らなくなる人、 歳を重ねて祈る事も少なくなって来る人、両方にな にか感じるものがあると思います。

「願うことなく少なくなれり星祭(品川鈴子)」  歳をとる毎に願い事が少なくなる。成長するにつ れて願うことが少なくなったのか、願い事が叶いす ぎて願うことが少ないのかはわからない。しかし、 今は世代問わず世界中の人々が「コロナの終息」を 願ってやまないことだろう。

好きな句:星の恋地上の吾も恋をして(永川絢子) 感想:「星の恋」というフレーズ?が個人的に好き  です。今年の七夕は大雨で大変でしたが…。昨今  の事情もあり、織姫と彦星はソーシャルディスタ  ンスを保っているなぁとくだらないことを考えて  しまいました。

   星の恋地上の吾も恋をして (永川絢子) 7月は七夕の季節である。七夕とは、織姫という男 女の星が、天の川をはさんで向かい合っていて、こ の2つの星が、1年に1度、7月7日にだけ会えると いうものである。星の恋とはこのことを表している と考え、その恋を自分自身もしていると歌っており、 非常にロマンティックであると思った。自分とは無 縁なものであり非常に羨ましくも感じられた。

  星の恋地上の吾も恋をして (永川絢子)  天の川を渡り合う星や、日食などの現象で重なり 合う星たちを恋をすると表現しているのは綺麗だと 思う。それに恋い焦がれているのか、星のように届 かない誰かに恋をしているのかを想像するとまた一 つ深く考えさせられる。

星合(ほしあひ)   星の恋地上の吾も恋をして(永川絢子)  私はこの俳句を聞いて、七夕の日の願い事に恋愛 成就をお願いしている少年、少女の情景が浮かんで きました。彦星や織姫と同じようにこの俳句を作っ た人もなかなか会うことができない人に恋をしたの かな?などと想像しました。

  星の恋地上の吾も恋をして  私は、星の恋は織姫と彦星を示し、地上の恋は作 者の恋を示していると思い、同情を感じさせる句だ と思いました。

【選んだ俳句】   星の恋地上の吾も恋をして  永川絢子 【感想】  ロマンチックな句だと思いました。星の恋とは、 織姫と彦星の恋のことを言っているのだと想像でき、 地上の吾が作者だと思うと、なんだか乙女心がくす ぐられるような気持ちがしました。また、現実の人 たちのことを考えてみると、コロナの自粛で会えな かった恋人たちが再会したり、しなかったりしてい ることが、各地の天気次第で会えたり、会えなかっ たりする織姫と彦星のように感じられ、ここにも天 上と地上が結びついているように感じました。いつ もは感じない気持ちを感じることができました。

  星の恋地上の吾も恋をして  この句を選んだのは、彦星と織姫がそらで恋をす る中で地球にいる人も同じように恋をする様子がう かがえていいなと思った。

七夕、星祭  最近七夕があったからこの句にしました。

好きな俳句1つ目: 五月雨をあつめて早し最上川 感想: 五月雨という季語を用いており、梅雨の時 期に雨が降り続いている様子を表している。雨が降 り続くことによって最上川が増水して流れが活発に なり、最上川の存在感がより一層増したことが分か る。自然の厳しさを分かりやすく表現していると思っ た。 好きな俳句2つ目:願うこと少なくなれり星祭 感想: 今日は七夕の日であるが、幼い頃は願い事 がたくさんあったが、年が経つにつれて大人になる と、願い事が少なくなり七夕という行事に関心を持 たなくなる様子を表している。幼い頃に願い事がた くさんあった頃は非常に幸せだったとしみじみと思っ た。

 

【第7回目俳句感想文】
俳句:刻々と真珠は育つ夏の海(松尾いはほ) 感想:真珠も人間も夏の海で様々な経験をして育っ  ていくということを感じました。

選んだ俳句:刻々と真珠は育つ夏の海(松尾いはほ) 感想:真珠は時間の経過とともに育っていくのに対  して、夏の海ではゆったりとした時間の経過があ  ることを暗示し、双方の対比を詠んでいるように  思いました。二つの時間経過を同時に感じられる  ところが良いと感じました。

  刻々と 真珠は育つ 夏の海  一番意味が伝わりやすくて、綺麗な夏の海と真珠 がマッチしていると思いました。

  刻々と真珠は育つ夏の海 (松尾いはほ)  夏は暑く人々は家に引き込もりがちだが好きな句

  刻々と真珠は育つ夏の海  シンプルで分かりやすかった。

  刻々と真珠は育つ夏の海 感想  夏の海で温かさとともに真珠も大きくなっていく。  夏の暑さの予兆なのか?作者は真珠の成長ととも に歳をとる自分を見て、昔の事でも思い浮かべてい るかもしれない。この真珠が大きくなっていく光景 を何度見た事か、この年になって気づくが時代は、 ぐるぐる回っているようだ。人間にはいつか燃え尽 きる時が来て、赤ちゃんが生まれる。自然界もそう なのか。  作者はこの一瞬を生きようと考えている。だから 夏を楽しもう。  真珠が大きくなるとともに私の夏に抱く好奇心も 大きくなっていく。

夏の海   刻々と真珠は育つ夏の海  そろそろ本格的に夏がはじまりだし、海の季節が やってきたって感じがしていいなと思いました。

選んだ句「刻々と真珠は育つ夏の海」 感想 真珠はすぐにできるのではなく、長い年月を  かけてできていることをがわかる。   真珠は夏に収穫できるのでどんなのができるの  かわくわくしているように思う。

  刻々と真珠は育つ夏の海 感想:アコヤ貝の中で少しずつ大きくなっていく真  珠と穏やかな夏の海の情景を掛け合わせた句だと  思いました。

  刻々と真珠は育つ夏の海(松尾いはほ)  真珠貝による真珠の養殖の様子と夏の海を読んで いる俳句。こうして美しい石が育っていくのを感じ るのも風情がある気がします笑

  刻々と真珠は育つ夏の海(松尾いはほ)  夏の暑い日差しが真珠を成長させている俳句だろ うか。夏を想像することができて良い。千秋から雨 の日が多いのでこのような天気になってほしい。       (編者)「千秋」は「先週」?

  刻々と真珠は育つ夏の海  夏に近づくと真珠は大きくなることを言っている と思います。

  夏の海 刻々と真珠は育つ夏の海 (松尾いはほ)  この俳句は真珠の育ち具合を使って夏の過ぎる早 さを表していると思う。毎年8.31になるともう終わっ たのか、と夏休みの短さを感じる。  その気持ちを真珠の成長に例えて詠んだ俳句だと 私は考える。

  刻々と真珠は育つ夏の海(松尾いはほ) 感想  真珠で季語を使い、夏の真っ最中だと言うことが 読み取れた。また真珠のかがやきと海のかがやきが 掛かっていて印象に残った。

  刻々と真珠は育つ夏の海  太陽の光が海を照らし、青々と美しく光り輝く夏 の海を想像しました。この句の作者は夏の美しい海 を見て、その海に真珠があるかのように思ったので はないかと思います。私も、夏の吉見の海を見て、 本当に真珠があるのではないかと思ってしまうほど でした。まだ梅雨は明けてないですが、一足先に夏 を感じました。

選んだ句:刻々と真珠は育つ夏の海 選んだ理由:夏の暖かい海の中で真珠が貝の中でじっ  くりと成長している様子が想像出来るので選びま  した。

  刻々と真珠は育つ夏の海  夏の海というと、海水浴などを思い浮かべるが、 あまり真珠は思い浮かばない。あまり視点の向けら れないところに着目しているのが面白いと思った。 同時に、三重県鳥羽市の真珠養殖をイメージした。 そこは、夏のギラギラしたイメージが無いので面白 いと思う。

  刻々と真珠は育つ夏の海(松尾いはほ)  私は、この句をみて、改めてきれいな海を守って いかなければならないなという気持ちにさせられた。 真珠はきれいな海で捕れる。自然豊かな海を保護し、 環境問題を一つ一つ解決して、また美しい真珠がた くさん捕れる海を作っていきたい。

  刻々と真珠は育つ夏の海  この句を選んだ理由は、きれいな真珠と夏の輝く 海ののきれいさがお互いを際立たせているように感 じられて、いいなと思ったからだ。

  刻々と真珠は育つ夏の海  真珠が収穫される主なシーズンは夏でその夏が梅 雨も明けて近づいて来たといった俳句だと思いまし た。私もコロナウイルスが無ければ海にでも行きた いです。

【選んだ俳句】   手に掬(すく)へば色なき水や夏の海  原石鼎 【感想】  夏のさわやかな雰囲気が伝わってきました。ただ の水でなく、色なき水とすることで、透明感が出て きてより涼しい感じが伝わってきます。手に水を掬 う仕草から、気温の高さが分かります。夏の暑さと 透明な海水の冷たさにより爽快さが表現されおり、 今の時期にぴったりでいいと思いました。私の好き な季節に好きな場所が組み合わさっていて個人的に お気に入りの句となりました。

  手に掬へば色なき水や夏の海  幼い頃に海へ行った時、晴れた空の青い色が海に 写って綺麗なのに、掬ってみると透明な水で、少し ガッカリした思い出と重なり懐かしく感じました。

夏の海 手に掬(すく)へば色なき水や夏の海  晴れた夏の日に海を見たら、きれいな青色であっ たためについ掬ったが、掬い上げた水は色がなくて、 少し寂しくなったことを読んだ句であると思いまし た。

 私は「手に掬へば色なき水や夏の海」を選びまし た。夏の海は遠くから見ると綺麗な青に見えますが、 手にすくってみると無色に見えるのはどうしてだろ うと考えていた小さい頃を思い出しました。結局ど うしてなのか答えはよくわかりませんが大きくなっ てそういう身近な不思議を感じ取れなくなってしまっ たことに少し悲しみを覚えました。小さい頃のよう になんでも身近の不思議を感じられた時に戻りたい です。

夏の海   手に掬えば色なき水や夏の海 感想:夏の綺麗な海を見て感動していたのに、いざす くってみると色は無く残念だったという気持ちが伝 わってきて面白かったです。

  手に掬へば色無き水や夏の海  綺麗な海の景色を手に取りたいという純粋な願い が叶わない寂しさを感じます。また、具体的な海の 色を示さないことによって真昼の青い海や夕日に照 らされ赤みがかった海などいかなる海の光景も手に 掬えば等しく同じ色になるというように想像力が掻 き立てられます。

  手に掬へば色なき水や夏の海  私はこの句を読んで、夏の海の新鮮さや海水の透 明感などを感じました。

  手に掬へば色なき水や夏の海 (感想)  昔海の青さは水が青いからだと思っていた時期が 僕にもあったなとしみじみとする詩です。

  手に掬(すく)へば色なき水や夏の海(原石鼎) 感想  この俳句を詠んだ時に吉見のきれいな海が思い浮 かび、早く海で泳ぎたいと思いました。また、私の 地元の福岡は吉見ほどきれいな海がなかったので、 初めて吉見に来た時に吉見のきれいな海にびっくり したのを思い出しました。冬の海は冷たいのでなか なか掬って海の水の色を見ることができないので、 実際に手で掬って海の水の透明度を見ることができ るのは夏ならではのことだな、と思いました。

  手に掬へば色なき水や夏の海 (原石鼎)  この句を読んで、意味が伝わりやすかったので、 夏の青い海から掬った水が、手の平が透けて見える くらい透明なのが思い浮かべられた。

  手に掬へば色無き水や夏の海  私がこの俳句を選んだ理由は、この俳句が一番個 人的に共感できたからです。  夏の海は、個人的に一番きれいだと思います。こ の俳句のように、夏の海は、掬っても透き通るよう にきれいです。そして、今年水産大学校の入学した ことにより、海がさらに身近になりました。一年を 通して、水産大学校前の海はきれいですが、最近ど んどん海が透き通ってきているような気がします。  以上のことにより、夏のきれいな海を表していて 個人的に、一番共感できたため、この俳句を選びま した。

「手に掬へば色なき水や夏の海」(原石鼎) 感想  夏の海は青々しくとても綺麗ではあるが、それは 光の吸収により青く見えているだけに過ぎないので、 手で掬っても水は透明である様子がよく伝わってく る。また、夏の海の水を掬うことで綺麗な青を近く で見たいという気持ちと、結局手にするのは透明な 水であることに少しがっかりする気持ちを感じた。

  手に掬(すく)へば色なき水や夏の海(原石鼎) 私が住んでいた奄美大島は海がとても身近にあり、 いつも真っ青な色をしていました。  夏場には何度も泳ぎに行き、真っ白な砂浜の上で 遊んだりしました。  そういった楽しかった思い出がよみがえってきま した。

俳句:手に掬へば色なき水や夏の海(原石鼎) 感想:夏の海は強い雨が降ったり水温が高くなるた  め水の色が悪くなりやすいが手に救うと元のきれ  いな色に戻ることに共感した。「青い海」が一般  認識であるが、掬ってみると無色であることは誰  しもが感じる不思議だろう。   特に夏は太陽光が強く、青く澄んだ海を手肌で  感じたくなるものである。

  手に掬へば色なき水や夏の海  幼い頃に海へ行った時、晴れた空の青い色が海に 写って綺麗なのに、掬ってみると透明な水で、少し ガッカリした思い出と重なり懐かしく感じました。

  手に掬(すく)へば色なき水や夏の海(原石鼎)  海は青いのに海水を手にとると透明なる。自分は、 このことをとても不思議で面白いことだと思った。

          夏の海   手に掬(すく)へば色なき水や夏の海(原石鼎)  この句はとても夏らしさを感じます。句の中に「夏 の海」とあるくらいですからそう感じるのは当たり 前のような気もします。  手ですくう海水は色がないとあります。色がない ということは透明で透き通っていると推測できます。 たしかに夏空の下での海の色は透明に見えることが しばしばあるように思います。日光と海水面とのな す角が冬よりも直角に近いから深部まで日光が届く から透明に見えるのでしょうか。また天気がいいこ とから遠くの水平線もはっきり見えていそうです。  私は夏に海に行くとたいてい蝉の鳴き声が聞こえ ます。また海岸では波が打ち寄せ、海側から夏風が 吹いてきます。つまり私は海という場所は五感で感 じられる場所だと思っているので、この句を詠んだ 時に五感で楽しめる句だと感じました。今までに経 験したことがあることをこの句に投影してしまって いますが、こういう楽しみ方もあっていいのかなと 思いました。

手に掬へば色なき水や夏の海     青く広がる夏の海でも、掬ってしまえば色     がなく透明になってしまうのはなぜだろう     と思いました。

手に掬(すく)へば色なき水や夏の海  私はこの句を選びました。  夏の透き通った青い綺麗な海の海水をすくってみ たけれど、自分の手の中にあったのは透明な水だっ た。という情景が浮かびました。  自分も幼いころ、海の水はきれいな水色をしてい ると思っていて、なぜ水槽に入れると透明になって しまうのか、といった疑問をもっていました。  その幼いころの記憶を思い起こす句でした。  しかし、時がたったいまでも、夏の海をみるとわ くわくするのは変わらないみたいです。  今年の夏は例年通りとはいきませんが、海で沢山 思い出を作れたらいいなと思います。

 舌に載(の)せてさくらんぼうを愛しけり               (日野草城) 感想  高校の文化祭のフォークダンスの曲で大塚愛のさ くらんぼを踊った記憶がよみがえりました。今年は コロナウイルスの影響で長野県の文化祭は短縮され るそうですが、まだやることができて良かったと思 います。短縮された分、濃く楽しんでほしいです。  また、この句はジョジョの奇妙な冒険の花京院典 明そのものではないかと感じました。真似をしたこ とを思い出しました。

  舌に載せてさくらんぼうを愛しけり  身を食べてしまったあとも口の中に残った種を転 がし続ける様子が子供を連想させ懐かしく感じた

句   舌に載せてさくらんぼうを愛しけり 感想  さくらんぼを美味しそうに食べている様子が浮か んでくる句だと思った。口の中に広がる味を堪能し ている状況を、「舌に載せて」「愛しけり」という ところから読み取った。ただ口に入れるのではなく 「舌に載せて」と表現することで、じっくり味わっ ている様子が思い浮かび、食べたくさせる句だと感 じた。

さくらんぼ、桜桃   舌に載せてさくらんぼうを愛しけり   ヘタのついたサクランボを噛まずに下で転がして 遊んでいるそのような状況が思い浮かびました。

さくらんぼ、桜桃   舌に載せてさくらんぼうを愛しけり  文字数を合わせるためにさくらんぼをさくらんぼ うとしているのか意図があってしているのか分から ないが表現が柔らかくて可愛らしいと感じた。また、 さくらんぼを食べることを愛しけりと表現すること で大事に味わって食べているのだと思った。

  舌に載せてさくらんぼうを愛しけり  サクランボが旬の時期で大好きなサクランボを味 わっている情景が思い浮かびました。

  舌 に 載 ( の ) せ て      さ く ら ん ぼ う を 愛 し け り            ( 日 野 草 城 )  作者の好きなさくらんぼを舌にのせて幸せな時間 を過ごしている風景が思い浮かび、さくらんぼの旬 は5月から7月なので、初夏が来たと感じました。自 分もさくらんぼが好きなので作者の気持ちがよく分 かった気がします。

  舌に載(の)せてさくらんぼうを愛しけり              (日野草城)  サクランボの涼し気な感じと口の中で転がしてる 情景が浮かんでとてもかわいらしかったです。

さくらんぼ、桜桃   舌に載(の)せてさくらんぼうを愛しけり             (日野草城)  この俳句を詠むと、子供の頃さくらんぼを食べた 後、弟とどっちが早くさくらんぼの茎を結べるか競 争したのを思い出す。結果はいつも弟に負けていた が...

  舌に載せてさくらんぼうを愛しけり  僕もさくらんぼは好きなので気持ちがわかります。

  舌に載(の)せてさくらんぼうを愛しけり               (日野草城)  私の好きな果物はさくらんぼで、実家でさくらん ぼが出ると食べてしまうのがもったいなくて、口の 中で転がしてゆっくりと味わって食べていたのを思 い出した。さくらんぼの旬はもうすぐ終わってしま うので、その前に食べたいと思った。

  幸せのぎゆうぎゆう詰めやさくらんぼ             (嶋田麻紀)  赤くて小さなさくらんぼの実には甘酸っぱい幸せ がたくさん詰まっている。一粒食べれば、頬がとろ けそうになる幸せを思い出しました。  地元ではさくらんぼは名産でなく、生のさくらん ぼは時々食べる程度だったので、一等美味しく感じ られたことを覚えています。

俳句:幸せのぎゆうぎゆう詰めやさくらんぼ 感想:さくらんぼが取れる時期になり、収穫してい  ると加護がいっぱいになるほど取れたので幸せな  気分になっている感じがします。       (編者)「加護」は「籠(かご)」?

「 幸せのぎゆうぎゆう詰(づ)めやさくらんぼ 」  夏の果物であるさくらんぼが沢山詰まっている様 子が、盛夏を想像させた。

  幸せのぎゅうぎゅう詰めやさくらんぼ 感想  私はさくらんぼが好きなのでぎゅうぎゅう詰めに なっていたら幸せだなと思いました。

  幸せのぎゆうぎゆう詰めやサクランボ  この俳句を詠んだ感想は、サクランボに幸せが詰 まっているのだと感じさせられました。私は、子供 の頃にサクランボは幸福の果実の聞いたことがあり 特別な日に食べることが多かったです。

  幸せのぎゆうぎゆう詰(づ)めやさくらんぼ              (嶋田麻紀) (感想)「ぎゅうぎゅう」をあえて「ぎゆうぎゆう」  とすることでよりたくさんの幸せが隙間なく詰まっ  ている感じでとてもいいと思いました。

  幸せのぎゆうぎゆう詰(づ)めやさくらんぼ               (嶋田麻紀) 感想・・・さくらんぼに幸せがぎゅうぎゅうに詰まっ  てると言うほど作者はさくらんぼが好きなんだな  とほっこりする俳句だと思いました。私はさくら  んぼの味が嫌いなのでやっぱり人の好みは人それ  ぞれなんだなと改めて感じました。

  身をよぢり浮かび四肢のべ山椒魚(福田蓼汀)  私はこの俳句を聞いてむかし祖父の家の用水路に いたサンショウウオが岩に上ってグネグネ動いてい る情景を思い出しました。とても夏にぴったりな俳 句だと感じました。

選択した詩:山椒魚、はんざき   身をよぢり浮かび四肢のべ山椒魚 感想:高校でホクリクサンショウウオの研究をして  いたので選択しました。まず、山椒魚(オオサンショ  ウウオ)と言えば「半分に裂いても生きている」と  いう伝説が有名です。「はんざき」という名前も  ここからつけられたと言われています。つまり、  山椒魚は生命力をあらわす夏の季語として使われ  ています。身をよじらせて泳ぎながら、呼吸のた  めに水面に浮上してきた山椒魚が、その四肢を悠々  と伸ばして力強く泳ぎ去っていく光景が目に浮か  びました。

山椒魚、はんざき   身をよぢり浮かび四肢のべ山淑魚  体身をひねらせて浮かんでいる山淑魚を想像した ら可愛いんだろうなと思った。       (編者)「山椒魚」で「木」偏の「椒」です。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り(松村蒼石) 感想:ヤマメ釣りをしたことがないのでどのような  釣りなのか分からないが、俳句から静かに待つ上  品な釣りなのではないかと想像できた。

・私が選んだ俳句は 月いでて岩のしづまる山女魚釣 り (松村蒼石) という句です。 (感想)夜に涼しい山の岩場で静かにヤマメ釣りを  している光景が思い浮かび、幻想的だなと感じま  した。また、自分もヤマメ釣りをしたことがある  ので楽しかったのを思い出しました。

・月いでて岩のしづまる山女魚釣り(松村蒼石)  下呂温泉の河川敷でキャンプをしたことを思い出 します。  夜月に照らされた川面の情景は神秘的で尊く感じ ます。  釣りも飽きることはないでしょう。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り  じっとヤマメ釣りをしている中、月が水面や釣り 人、川の岩を照らし釣り人の緊張感が伝わってきた。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り  この俳句の季語は、山女である。この俳句からは、 夜、周りに誰もいなく、風もなく何の音もしない状 況での山女釣りをする状況が考えられる。「岩のし ずまる」という部分は、川や風などでなく何故岩と いう元から静まっている物を選んだのかという所を 不思議に思った。

山女(やまめ)、山女魚   月いでて岩のしづまる山女魚釣り(松村蒼石)  月光により足元の岩が照らされ、夜でも川で安全 に釣りができることを表していると思った。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り(松村蒼石)  ヤマメの意味として、漢字の通り山にいる美しい 魚という意味である。その中で、静まり返った月の 出ている夜中に、泳ぐヤマメは月に照らされてより 一層美しく幻想的な姿を見せてくれるのだろうと考 えた。その中で釣りをできるというのは、すごく幸 せだろうなと思った。

月 い で て 岩 の し づ ま る 山 女 魚 釣 り           ( 松 村 蒼 石 )  夜に川のほとりで静かにヤマメを釣っているとい う情景が浮かび、とても穏やかな気分になる素敵な 俳句だと思いました。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り  僕もヤマメ釣りが好きなのでこのうたが気になり ました。  山女魚(ヤマメ)の由来は女のように美しい魚体を もった山に生息する魚だといわれています。「メ」 は魚を表す接尾語なので山の魚でヤマメという節も ありますが僕は前者だと思いたいです。  静かな山の中、1人川で魚と闘う姿はイメージは 想像ができます。  しかし、夜に釣るという危ない行為をするのかと 気になりました。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り  じっとヤマメ釣りをしている中、月が水面や釣り 人、川の岩を照らし釣り人の緊張感が伝わってきた。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り  句を詠んでいる限り、夜になり周囲の音が一切発 生しないような環境の中で、山女を釣ろうとしてい る情景が美しいと思いました。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り  海での釣りも楽しいですが、夏の暑い日には山奥 の涼しい場所での渓流釣りが心落ち着きとても楽し いです。月夜に川虫が飛びそれを餌として釣る光景 が思い浮かびます。  地元に帰ったら渓流釣りをしたいと思いました。

山女、山女魚   月いでて   岩のしづまる   山女魚釣り(松村蒼石)  この句を読んで、山女魚釣りは夜行うことを初め て知りました。  満月の出ている幻想的な情景が伺えます。

 私が一番気に入った詩は『月出でて岩にしずまる ヤマメ釣り』です。川魚であるヤマメは渓流などに 住んでいますが釣るのはとても難しく静かに息を殺 して待たないといけません。それを月明かりに照ら されながら釣っている情景がすぐに頭に浮かんだの でこれにしました。

  月いでて岩のしづまる山女釣り (松本蒼石)  夏の風物詩であるヤマメ釣り(渓流釣り)が解禁 された。夏に渓流の風景を見ることは、 心の保養に いいと思う。渓流は水もきれいで水温も低いので、 水遊びにはもってこいの場所だ。もちろん、魚の種 類も豊富で、ヤマメだけでなくハヤや場所によって はマスがいるところもあり、魚が泳いでいるところ を上からのぞくと、くっきり見ることができる。  次の句は自作の句である。   家籠りエアコンつけて昼寝する  この句を詠んだ背景には、最近の少し怠惰な生活 事情がある。少し前に読んだ句でエアコンは文明の 英知だと言っているような句があったと思う。エア コンは少しでも暑いと漬けてしまい、自分の好きな 温度にできるため、つい低めに設定しがちになって しまう。もちろん、地球温暖化だのヒートアイラン ド現象だの環境問題を無視しているわけではない。 むしろ真摯に受け止め解決に結び付けようとはして いるものの、人類は自分第一の欲があるので、これ には逆らえないと思っている。

  月いでて岩のしづまる山女魚釣り(松村蒼石) 月が出でいる夜に、一人静かに山女魚釣りをしてい る状況を表現している。岩のようにじっと静かに、 山女魚がかかる瞬間を待っているのを想像し、その 緊張感に自分も引き込まれそうになった。

  月いでて 岩のしづまる山女魚釣り  月がでるころに岩になげてヤマメを釣るのを読ん だと感じ、それを読んでいることに風情があって、 良いなと思いました。

  船室ともりぬ海月(くらげ)愈々(いよいよ)      流れけり (高浜虚子) (感想)熱くなってきて徐々に海月が出てきて夏が始  まるのが伝わってきていいと思いました。愈々と  漢字にすることで古風な感じが出ていいと思いま  した。

  船室とともりぬ海月愈々流れけり (高浜虚子)  夏の船上を思い浮かべた。船の中の船室から海を みると、くらげが沢山ただよっていて(海の流れで 流れていて)、いよいよ夏だなぁ…と作者がひしひ しと感じていることがわかる。

【俳句】 夜 光 虫 掬 ( す く ) ひ し 指 を    漏 り て 光 る   ( 殿 村 菟 絲 子 ) 【感想文】  この俳句を詠んで夜光虫が海岸で波の刺激で発光 し海が青白く光っている幻想的な光景が浮かんでき た。指を光が透けるほどの鮮明な夜光虫の光を私も ぜひ見てみたいと思った。

  夜光虫掬ひて指を漏りて光る  夜光虫が指の間から光が漏れて光っている様子が とてもキレイなんだろうと私は思います。

  夜光虫掬ひて指を漏りて光る(殿村菟絲子) 感想  暗い夜の海岸で一人海を眺めている人が何気なく 足元の水を掬って水が零れ落ちその衝撃で光る夜光 虫を想像できた。  なぜか寂しさを感じるのは私だけでしょうか?

選んだ句 「夜光虫掬ひし指を漏れて光る」 感想  この句からは、海で青白く光っているものを手で すくって指の間から水が零れ落ちるのと同時にそれ に伴って光っているという風景が感じられた。この 風景がとても幻想的に感じたことに加え、夜の海と いう感じも連想でき、とてもきれいな句だと感じま した。僕は、あまり夜光虫というものをしっかりと みるという経験はないので、こんな風景を見てみた いとこの句から感じました。

  夜光虫掬(すく)ひし指を漏りて光る 感想:海の幻想的な風景をよく感じようとしている  のが伝わります。

  夜光虫掬(すく)ひし指を漏りて光る              (殿村菟絲子)  夜光虫はとても幻想的な生物ですね。ラテン語で もノクチルカと舌あたりがよいです。海よ漂い、空 を仰いで輝くノクチルカを掬えば、途端に手の中に 小さな星空が生まれます。ちなみにノクチルカの発 光反応はルシフェリン反応と言って、「光を齎す者」 という意味のルシファーから来てるそうです。ミル トンの失楽園を思い出します。

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く 阿部寿雄  夜光虫とはヤコウチュウのことである。ヤコウチュ ウは、調べたところ、海洋性プランクトンであるこ とが分かった。難波し、虚しく座礁した船の周りを ヤコウチュウが照らす様子が目に浮かんだ。

好きな句:夜光虫燃えて破船の闇に浮く 感想:夜の海で燃えるように青白く光る夜光虫とそ  の光によって浮かび上がって見える破船という幻  想的な風景が目に浮かびました。一度は夜光虫が  光っている様子を見てみたいと思いました。

「夜光虫燃えて破船の闇に浮く」  難破船のように虫たちも闇の中を飛び回っている 光景が浮かんだ。

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く  「光って」ではなく「燃えて」と表現していると ころにこだわりを感じた。

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く  夜光虫が見えるようになってそれに魚達が集まっ てくるいい時期になったと思える季語であると思っ た一方、破船の闇に浮くとはどういう状況を表して いるのか、改めて考えさせられるものであると思い ました。沈没船が海に沈んでいて、そこの変化に潮 が渦巻いていて夜光虫が光っているのではないかと 想像してしまいました。

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く  この句を読んで、月の光のある夜の中で、海で静 かにたたずむ破船の近くで、夜光虫がキラキラと光っ ているというような幻想的な情景が浮かんできまし た

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く  船のライトが消えた状態で夜光虫の光が暗闇に幻 想的に光っている

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く (阿部寿雄)  私がこの俳句を選択した理由は、とても美しい光 景が目の裏に浮かんだからだ。夜光虫が光る様子を 「燃えて」と表現する技術にとても感動した。また、 きれいな夜光虫と破船の組み合わせがとても面白く、 泳ぐではなく「浮く」とする考え方にとても興味を 惹かれた。この少ない文字に文字数以上の情景や神 秘性が込められており、とても素晴らしい作品だと 感じた。

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く  夜像でしか見たことない夜光虫を1度見に行って みたい。夜光虫といえば、キレイ、や、美しいといっ た感じの句で詠まれるのが自然だが、マイナスの方 向の美しさ「人は死んでこそ美しい」といった、サ イコパス的な表現が私の好みなので選びました。       (編者)「夜像」と読み取りましたが、「映像」?

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く 感想  夜中に漁船場で、ライトを照らしながら待機して いる漁船の周りに群がっている虫が海に落ちて浮い ている情景がうかびました。とても良い句だと思い ます。

  夜光虫燃えて破船の闇に浮く(阿部寿雄)  先日、ネットで大量の夜光虫が海岸に打ち寄せる 幻想的な映像を見ました。僕もあのネオンのような 青い光に包まれて泳いでみたいなと思いました。  短歌を作ってみました。    落ちていく掴んだ砂と夜光虫      二人の記憶は海に溶かして (近藤駿介)

好きな俳句1つ目:刻々と真珠は育つ夏の海 感想:夏の暑い時期の夏の海で、真珠が生き生きと  育っていることが分かる。やがて綺麗な真珠になっ  て海の中で輝かしい存在になるだろうと思った。 好きな俳句2つ目:夜光虫燃えて破船の闇に浮く 感想:夜光虫は海洋性のプランクトンであり、大量  発生すると夜に光り輝く。この俳句では夜の海で  夜光虫によって海が光り輝いており、綺麗な光景  であり、また不思議な世界観であることが感じと  られる。真っ暗な海の中で光り輝く夜光虫に私は  引き込まれるような気持ちになった。

 

【第8回目俳句感想文】
梅雨明   梅雨明けの航跡ながく出漁す (今岡淑子)  私の実家のベランダからは海が見えました。  朝早く目が覚めた時や勉強が行き詰った時私近く の港やベランダから海を眺めるのが日課でした。  この句を詠んで早朝まだ日も昇らぬうちに出漁す る小さな漁船の姿が頭に浮かびました。

  梅雨明けの航跡ながく出漁す (今岡淑子) 感想・・・最近ずっと待っていた梅雨明けがきたの  で、この作者も漁が出来ない梅雨が明けるのをずっ  と待ち遠しく思っていたのかなと感じました。航  跡の意味を知らず、調べて船が通過した後の白い  泡や波のことだと知り、一つ賢くなったような気  がします。

  梅雨明けの航跡ながく出漁す  梅雨が明け、雨で濁った海の形跡が消えて漁業の 漁獲が上がったと思います。

  梅雨明けの航跡ながく出漁す(今岡淑子) (自作)    自分も梅雨が明けて気分が良いので船でタビに  でたくなりました。

  梅雨明けの航海ながく出航す  普段テレビを見ないので正確な日時は存じ上げま せんがこの句やセミの鳴き声を聞き梅雨明けが来た ことを知りました. 待ち望んでいた比較的穏やかな 海での出航, 天候を気にせず遠くへ出る. 船が漁船 であれば張り切り,客船であればわくわくとした期待 などいろいろありますがどれもこれもある種の活発 さを持っているように思います。

  梅雨明けの航跡ながく出漁す (今岡淑子) (感想)  梅雨が明けてようやく漁に出られるという嬉しさ で航跡が長くなってしまっていると読み取れました。 題名を「梅雨明」にして漢字だけにすることで趣が あるように感じました。

俳句:梅雨明けの航跡ながく出漁す 感想:今まで梅雨だったため漁になかなか出られな  かったが、梅雨が明けたおかげで漁に出られるよ  うになったが、今まで漁に出ていなかったため、  船を通す道がまだ決まっていないまま漁に出る感  じがしている。

  梅雨明けの航跡ながく出漁す  私は、梅雨の影響で漁に行けなかったが、梅雨が 明けると、漁が再開し、久しぶりすぎて、航跡がな がく見える描写を想像しました。

  梅雨明けの航跡ながく出漁す 感想  梅雨が明けることを祈っていた人にとっては明け るまでの期間がとても長く感じただろう。気持ちも 梅雨のせいで自分の行かなければいけない進路がぼ んやりしている人も一部いたと思う。やっと梅雨が 明けた。自分の行き先は、はっきりと見えている。 後は行動に移し、出漁しよう。

  梅雨明けの航跡ながく出漁す (今岡淑子)  梅雨が明け、波が穏やかになり航跡が残る様子が 容易に想像できた。梅雨明けは、梅雨の水を飲んで 魚が美味しくなると言われているが、「ながく」と いう表現に漁業者の「この時期を待ちわびていた」 という気持ちも含み表現しているのではと考えた。

俳句:夕立の音ばかりして通りけり (正岡子規) 感想:夕立が降ってきたと思えばすぐに止み、雨音  だけをしっかりと伝える夏の気候にぴったりな俳  句だと思った。

  夕立の音ばかりして通りけり 感想:夏の季節の突発的に発生する夕立に対する憂  鬱さをテンポよく表現していると思います。

  夕立の音ばかりして通りけり 感想:この時期によくある夕立の激しい雨の音が思  い浮かびます。よく学区から帰っていた時に夕立  に遭遇していたのでし正岡子規がこの句を詠んだ  わけが分かる気がしました。

  夕立の音ばかりして通りけり (正岡子規)  夏になると夕方にいきなり夕立があり、雨が一気 にふる。時には盆を返したようなどしゃぶりになる ことがあり、そのような夕立は音ばかり大きく、す ぐに過ぎ去っていくと作者がこの俳句に思いをこめ たことがわかる。

  夕立の音ばかりして通りけり   (松岡子規) 感想  この俳句は詠んだ時に「夕立の音ばかり」のとこ ろから、やっと梅雨が明け、夏が来たと思っていた ら今度は夏特有の夕立に気が重くなっている作者の 様子が思い浮かびとても印象に残りました。今週梅 雨明けし毎日暑い日が続いてるが、この暑さも夕立 も夏ならではのことだと思い今年の夏を楽しもうと 思います。

  夕立の音ばかりして通りけり  この俳句を読んで梅雨明けする前の夏の湿った空 気による嫌な大雨と夏の暑い日に急に降り出す夕立 がすごい勢いで通り過ぎていくのがシンプルに想像 できる句だと感じました。

  夕立の音ばかりして通りけり  夕立の時は音がすごいのでこの作品はとてもわか る気がする

  夕立の音ばかりして通りけり (正岡子規) 感想:この句を詠むとひどく強い雨が思い浮かぶ。  特に今年の梅雨は強い雨が長い期間降ったのでよ  り鮮明に雨の音やにおい、じめじめとした空気が  想像できる。

夕立の音ばかりして通りけり (正岡子規)   夏の急な夕立で、一気に気温がさがって部屋が   少し涼しくなる風景が浮かんだ。

 私は「夕立の音ばかりして通りけり」が気に入り ました。私の出身の栃木県は毎日のように夕立が来 る名所で毎日夕方になると空が真っ暗になり雷が鳴 り響きます。そんな地元を思い出して懐かしい気持 ちになりました

選んだ句;夕立の音ばかりして通りけり 選んだ理由;最近、雨が降ることが多く雨音や雷の 音を聞く機会がたくさんあったため情景が想像しや すかったから。

選んだ句「夕立の音ばかりして通りけり」 理由 夕立の音ばかりするということは自分は部屋 の中にずっといるということ、ずっと雨で家にいる 状況を表している。憂鬱な気分がうかがえ、まるで 自分と重なるようだから

  夕立の音ばかりして通りけり  詠んだのが正岡子規だったので。

  夕立の音ばかりして通りけり (正岡子規) 感想  小学生の夏休みに私は毎日のように友達とサッカー をしていました。それで夕方になると雨が降って銀 杏の木のそばで雨宿りをしていた記憶がよみがえり ました。あの頃は毎日楽しかったです。今の子は私 たちのように毎日外で遊ばないのかと考えると時代 を感じます。

  夕立の音ばかりして通りけり (正岡子規)  最近ゆうがたに雨が少しだけ降って、止むという のがあってと少し共感した.

  夕立の音ばかりして通りけり  つい1週間ほど前もそうだったが朝から晩まで雨 が降り続け夜中目が覚めても雨の音だけが鳴り響い ていてその様子がよく伝わってくる

「木から木へこどものはしる白雨かな」(飴山實) 感想  夏の夕方に起きる夕立に降られて、木に雨宿りす るために走る子供達の様子が鮮明に思い浮かんだ。 ようやく梅雨が明け、外で遊べるようになったため にはしゃいでる子供をイメージした。また、外で遊 びはしゃいでいた自分自身の過去を思い出し、なつ かしい気持ちになった。

「木から木へこどものはしる白雨かな 」  夏の日に遊んでいた子供が突然の白雨に襲われ、 木から木へと濡れぬように走る様子が思い浮かんだ。 どこかしら、この大雨を楽しんでいるような様子も 感じた。

  木から木へ 子供が走る 白雨かな  梅雨でよく雨が降る中、久しぶりに晴れて、子供 が外で遊んでいる中、にわか雨が降り、木で雨宿り している情景が浮かびました。

  木から木へこどものはしる白雨かな  夕立の様子を子供に例えているのが面白い。確か に夕立は子供が木から木へ駆けるときのように、短 い時間で激しいものであると痛感させられた。私に はそのような例えは思いつかない。

海開(うみびらき) まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  まだ夏は始まったばかりで、海水浴場では白く目 立つ程、肌が焼けていないことを表している。

海開 まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  この句をみたときにまだ日焼けしていない子供た ちの様子を思い浮かべた。私は夏によく海に遊びに 行っていたが、地元に帰ってくる頃には真っ黒に日 焼けしていた。当時を思い出して懐かしい気持ちに なった。

海開き(うみびらき)   まだ白き肌のまぶしき海開  今まで長袖を着ていて白くなっていた肌が、海開 きで水着を着ることであらわになり、白い肌と太陽、 砂浜がまぶしい様が思い浮かぶ。

  まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  この句を詠んだ感想は、家の中で生活することが 多い梅雨が終わり、その後すぐに海開がやってくる のでまだ白い肌なんだと思いました。最近、下関市 も梅雨明けが発表されたので海で泳ぎたいと思いま した。

海開(うみびらき)   まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  この句の季語は海開きで夏の季語です。この句は 詠んでいて面白かったので選びました。なにが面白 かったかというと、海開の前は肌も焼けてなくて白 いのに海で遊んでいる間に肌が焼けてしまい黒くな るという経験をしたことがあるからです。多くの人 がこの経験をしたことがあると思います。こうした 経験があるからこの句を詠んだ時にどこにも日焼け するや肌が黒くなるという言葉がなくても色の変化 を感じ取ることができます。私はこの句を575で 分けたとき最後の文字が必ず「き」になっているこ とに気づきました。この句を詠んだ時に形容詞が不 自然だなと思っていました。このように「き」で統 一したのは作者の遊び心でしょうか。これが作者の 遊び心だとしたら、待ちに待っていた海開に心がウ キウキしているといったような心情を表していたり するようにも思えました。

  まだ白き肌のまぶしさ海開 感想  これからどんどん肌が黒くなっていくような情景 が浮かんだ  まだ自分自身一回しか海に行ってないからたくさ ん行きたい。

  まだ白き肌のまぶしき海開 感想  冬と春そして梅雨を乗り越え真っ白になった肌が 太陽の光で反射し、陰から見て海と大きい白い光(人 体)駆け回っている真夏の砂浜が思い浮かべられた。

俳句:まだ白き肌のまぶしき海開(井口とよ) 感想:すべてことは何もないところから始まってい  るということ思っていると感じました。

  まだ白き肌のまぶしき海開 感想  海開きに伴いまだ肌の白い人が思い浮かび、これ から日焼けしていく様子が想像される。読んでいて 楽しかったです。

選んだ句「まだ白き肌のまぶしき海開」 井口とよ 感想 この句からは、いよいよ夏本番が始まりみん  なで海に遊びに行くような情景が連想された。こ  のような感じは今まで当たり前に過ごしてきたの  だが、今年は気楽に海水浴というものはできない  ためより強くこの句が目に留まったなと感じまし  た。また、まだ白きというところもこれからの楽  しみや思い出がたくさん作ることができる期待と  いうものも感じたのでこの句はとても楽しみや期  待がたくさん詰まっているものだと感じました。

  まだ白き肌のまぶしき海開(井口とよ) ・まだ白き肌というのがまだ夏になってすぐのこと  で、あまり日焼けがない状態であり、このあと海  で、すごい日焼けをしてくるような情景が思い浮  かんだ。

海開(うみびらき)   まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  私はこの俳句を聞いてやっと海開きになってこれ から遊びつくすぞという意気込みが聞こえてくるよ うな感じがしました。まだ白き肌のところからこれ からたくさん遊ぶ余裕が感じられました。

句   まだ白き肌のまぶしき海開 感想  他の句よりもリズム感が好みだった。梅雨が終わ り夏がやってくるなかで、日に焼けて肌が黒くなる 前のまだ白い肌がまぶしく太陽に照らされている様 子を想像した。「海開」によって海で遊ぶ季節になっ たことが明確に分かる句だと思った。白い肌がこれ から黒くなっていくのだろうと思わせる句だと感じ た

  まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  私がこの俳句を選択した理由は、まだ日に焼けて おらず、まぶしいほど白い肌とキラキラと光る海が 目に浮かび、海開のうれしさが伝わってくる作品だ と思ったからだ。また、夏の始まりである今の時期 にぴったりなものだと感じた。

ま だ 白 き 肌 の ま ぶ し き 海 開 ( 井 口 と よ )  まだ白い肌のころに海であそぶ情景を思いました。 これから焼けていくのですが、まだ白いことで海開 を表していてすごく思いのこもった俳句だと思いま した。

 私が一番気に入った詩は(まだ白き肌のまぶしき 海開)です。気言った理由は冬の間長袖を着て太陽 に当たらず日に焼けていない肌から海開きという時 期になり身も心もそう快感に包まれるそんな状況が 頭に浮かびこれを選びました。

  まだ白き肌のまぶしき海開  海開きの時の初夏を白い肌が物語っている。

海開(うみびらき) まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  最近近くの海で泳いでいる人がいる。梅雨が明け て、夏が始まった。しかし、まだ日焼けはしていな く、白い肌をしている人たちがいた。  その状況をこの句を読んで思い出した。

  まだ白き肌のまぶしき海開  これから海開きによって夏の日差しに晒されて焼 けてなかった肌がこれから焼ける夏の始まりを感じ させる俳句だと思いました。私も海で泳ぎたいです。

【選んだ俳句】   まだ白き肌のまぶしき海開    井口とよ 【感想】  夏が始まったばかりの雰囲気が伝わってくる句だ と思いました。それは「白き肌」から梅雨ばかりで 家にこもりがちだった日々のため、まだ日焼けして ないということが想像できるからです。また、先日、 大学の前の海で見た光景がそのまんま当てはまって いて、今の季節にぴったりな句だと思いました。今 年は「海開」が中止になったことにも考えがいき、 少し寂しくもなりました。

海開(うみびらき) まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ) (感想)日焼け前の情景がすぐに分かるはいくだと思  いました。夏らしい爽やかさを感じます。

  まだ白き肌のまぶしき海開  この句を選んだ理由は、ようやく梅雨が明け気温 んも上がり海に行くとこれまで日にあたっていなかっ た肌が白い様子が鮮明に伝わってき共感しやすかっ たからだ。今年は白い肌のまま夏を越す人が多そう だ。

  まだ白き肌のまぶしき海開(井口とよ)  海開きまで外に出ていなくて、肌が白い状態と夏 の海の鮮やかさとの対比があり、自分も海に行きた いという気持ちにさせる。

  まだ白き肌のまぶしき海開(井口とよ) 感想  まだ白い肌なので、夏になる前の話で海開きして これからやけて夏を楽しもうとしていることがわか る。

・私が選んだ俳句は まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ) という句です。 (感想)梅雨が明けたばかりの晴天の中、海水浴前  のまだ日焼けしていない白い肌で海を眩しそうに  見渡している筆者の情景が想像できたので選びま  した。私個人の想像ですが、筆者はこのとき海を  見てかなりわくわくしているのではないかと思い  ました。なぜなら「まぶしき海開」という表現は  わくわくしていない限り思いつかないと考えたか  らです。私はそんな筆者と自分を重ねてしまった  ので、楽しい句だと感じました。

  まだ白き肌のまぶしき海開 (感想)  7月下旬は海開きが始まる時期でもあり、まだ焼 けていない状態での白い肌は夏の始まりを感じさせ る

  まだ白き肌のまぶしき海開 感想  これから海で泳いで日焼けをしていくのだなと思 いました。

【俳句】 ま だ 白 き 肌 の ま ぶ し き 海 開 ( 井 口 と よ ) 【感想文】  この句を詠んでまだ日焼けしていないまばゆいく らいのきれいな白い肌が何とも言えない景色を想像 できる。今年はコロナでなかなか外出できない時期 が続き海開きももちろんなるべく控えなければなら ないため、この句を詠むととてもむなしくなる。

  まだ白き肌のまぶしき海開 (井口とよ)  今年はコロナウイルスの感染拡大により、海開き されていないところも多くある。人込みが怖いため 今年は1回も海に入ることなく今年の夏を終えそう なので、この句を読み、海に行きたいと思ったしい つもの日常は本当に幸せなことだったのだなと改め て思った。

  まだ白き肌のまぶしき海開  私はこの句を選びました。  私はこの句から、梅雨があけ、海開きがはじまり、 沢山の人が海水浴を楽しんでいる様子が浮かびまし た。海開きが始まって間もない様子の事を、海水浴 客のまだ白き肌といった言葉で表現している点に、 とても惹かれました。  私も先週、吉母の海水浴場に遊びに行きました。 私たち自身も今年初めての海だったので、この句の ように、白き肌でした(笑)  今年はコロナウイルスの影響もあり、例年通りの 夏を過ごすことはできませんでしたが、こういった 句を詠むと、楽しかった去年までの夏の思い出や、 来年以降の楽しい夏を想像することができました。

海開(うみびらき)   まだ白き肌のまぶしさ海開  ようやく長い梅雨が明けて夏らしくなったので海 を満喫できそうです。今年はコロナの関係で海開き は難しそうですがせっかくの夏を楽しもうと思いま す。

〈選んだ句〉   まだ白き肌のまぶしき海開き 〈感想〉  私の肌色はよく白いと言われることが多いのです が、去年は海技実習で1週間1日中外で陽を浴びて 過ごしていたため健康的な夏らしいふつうの肌色に なりました。今年の夏は外出する機会も少なく梅雨 も長かったため、ほとんど日焼けすることなく日陰 などでみる自分の腕の色は灰色っぽく、日差しが強 い日は選んだ句のように白く光っているように見え ます。  なので今のまだ日焼けしうる前の季節にぴったり で共感できる点がいくつかあったのでこの句を選び ました。

  まだ白き肌のまぶしき海開  季語は、海開である。この俳句は、海開きの日、 海に集まった人たちを見ると、まだ日焼けしておら ず肌が白い光景を呼んだと考える。この白には、砂 浜の白も含まれていると考えた。

  まだ白き肌のまぶしき海開(井口とよ)  長かった梅雨も明け、夏本番がやっと始まった今 年であるが、海開きといってもなかなか海水浴に行 けるような世間ではない。しかし、気分だけでも海 開き後の浜辺にいったつもりになりたく、この句を 選んだ。この句では、海開きの日に、まだ肌が焼け てなく白い肌が目立つことを「白き肌のまぶしき」 と表現していると考えた。たしかに海開き前までは 梅雨で曇り空が多く、肌が小麦色に焼けるような天 候ではない。しかし、海開き後は大体晴れの日が多 くなり、外にいるだけで肌が焼けてくる。私は、毎 年背中がひりひりするほど肌が焼けると夏だなと感 じてくる。  次の句は自作の句である。   夏空の下で輝く小太陽  今回は少し強引な俳句になってしまったが、自分 では今までで一番いい出来だと思っている。この句 は、散歩で公園に行った時にヒマワリが大きくてき れいな花を咲かせていた。そこで、ヒマワリを見て いるとあまりの暑さですぐに喉が渇いてしまうほど だった。その時思ったのは、ヒマワリが太陽のよう に熱を放っているのではという事だ。もちろんそん なことはなく、私の頭が暑さでやられた訳でもない。 でも、そう思うほど輝いて見えた。そこで ヒマワリ を小太陽に見立ててこの句が思い付いたのだ

  行(ゆく)雲をねてゐてみるや夏座敷(野坡)  涼しい座敷から流れる雲を眺めている情景が浮か んできて田舎の夏休みのような懐かしい気持ちにな れて気分が良い俳句だと思いました

選んだ俳句   行雲をねてゐてみるや夏座敷 感想  夏に風通しの良い和室で寝転がるのは気持ちがい いです。

  行く雲を寝てゐてみるや夏座敷  私がこの句を選んだ理由は、2つあります。  1つ目としては、つい最近ようやく梅雨明けした、 山口の空がすぐに浮かんでくる俳句だったからです。 長い梅雨、そして今年は特に大雨が続き、待ちに待っ た夏が来て、うれしい気持ちで雲が流れる空を眺め ている、今の自分をよく表しているかのような句で した。  2つ目としては、小さい頃の夏休みに、祖母の家 で横になりながら夏の雲が流れていく空を眺めてい たことを思い出したからです。雲が何でできている のかも分からない頃、空を眺めて、流れていく雲に 乗りたいなあと思っていました。  以上のことから、一番自分の気持ちが表されてい ると思ったので、この句を選びました。

  行雲をねていてみるや夏座敷  夏の暑い日に座敷で寝転がっているところから、 休日にのんびりと過ごす人物であると伺えて、また ほんのりと伝わる座敷から熱が感じれるようでした。

  行雲をねてゐてみるや夏座敷  暑い夏に空を見上げると白くて大きい雲がゆっく りと移動している。  最近は忙しくて空を見上げることも無くなりまし たが、昔はよく空を見上げて雲が移動するのを眺め ていたことを思い出しました。夏の暑い日によく見 上げていたような気がします。なんだか懐かしい感 じがしました。

  行く雲をねてゐてみるや夏座敷 (野坡)  うだるような暑さの中にげっそりとして寝転んだ お座敷から頭を縁側に出してみると、大きな入道雲 がもくもくと成長して風の吹く方向へ移動する。  ぼんやりした頭で見る入道雲の景色は幻想的だと 感じました。今年の夏も例年通り暑いですが、暑さ に負けないように頑張っていきたいと思います。

  行雲をねてゐてみるや夏座敷  この句を読んで、座敷の縁側でくつろぎながら雲 を見上げている… というような光景が浮かんできました。

  うすぐらくあるふるさとの夏座敷 (下山槐太)  この俳句を詠むと、小学生の頃、お盆に母方の実 家に行った際に襖や障子戸が全て開かれた状態で皆 で晩ご飯を食べたことを思い出した。

  うすぐらくあるふるさとの夏座敷(下山槐太)  普通の夏座敷ではで涼を取ることができるが、薄 暗い夏座敷は少し怖い。

「うすぐらくあるふるさとの夏座敷」  この前、実家に帰省した時に、座敷の様子は薄暗 く物置のようになってしまっていました。私は三人 兄弟の末っ子なのですが、子供がみんな家を旅立ち、 子育てに一段落ついたところで、長年の疲れが出た のでしょうか。兄弟の誰かが子供を授かることなど があれば、親戚たちと共に自家製のスイカや夏野菜 などを取り囲み夏座敷の風情を再び楽しみたいです。

虎魚(おこぜ)    驚愕のまま氷漬け鬼虎魚 (福田貴志)  虎魚の特徴的な顔がおどろいているかのように見 え、その姿のまま氷漬けされているという状況が思 い浮かびました。

  驚愕(きようがく)のまま氷漬け鬼虎魚                  (福田貴志) ・作者が見たオコゼはきっと口を開いたまま硬直し ていて実際には驚愕の表情ではなくてオコゼ独特の 大きくて厳つい口がそういう風に見えたのだろうけ れどそれを表情として捉えるのは面白いと思います。 自分も虫や魚に対して表情や感情を見出して日常風 景をもう少し色鮮やかにしてみようと思います。

  驚愕のまま 氷付け 鬼虎魚  釣られて驚いているときの鬼虎魚が氷付けの状態 でいるのだと読みました。想像がしやすくて、良かっ たです、

選択した詩:虎魚       驚愕のまま氷漬け鬼虎魚 感想:オコゼには「山の神に捧げるとあまりにも醜  くて、自分よりも醜いものがいると安心なさる」  といった伝説がある。そのような醜い顔が必死に  口を開き、しかもそのまま氷漬けにされてその顔  を保ち続けている姿が想像できる。おそらく読者  は思い浮かべるだけで笑ってしまうだろう。しか  し、私個人としてはオコゼの顔はかわいいと思う  ため、少し別のアプローチも考えてみる。オコゼ  と言えば煮込み料理が一般的である。このオコゼ  が煮込まれると仮定すると、「え、この後俺熱湯  風呂すか?」とちょっと焦った顔にもみえてくる。  日本が誇る伝統芸能、ダチョウ倶楽部の「押すな  よ!」も氷水を少しかぶってから行われる。この  オコゼは「やめてー」とでも言いたげな驚愕の顔  を晒しながら、実は準備万端なのかもしれない。

  驚愕のまま氷漬け鬼虎魚 (福田貴志)  オニオコゼの顔ってすごく特徴的なので、あの顔 を驚愕の顔と見立てたのでしょうか。とても面白い 俳句だと思います。

虎魚(おこぜ)   驚愕(きょうがく)のまま氷漬け虎魚                 (福田貴志)  虎魚が釣られて驚いている間に氷漬けにして保存 されたことが分かり、漁師の魚への管理が行き届い ていることが分かる句でした。

  驚愕のまま氷漬け鬼虎魚  釣り上げられたりしたオコゼの目玉が飛び出るこ とを驚いている表情だと捉え、しかもそれがそのま ま氷漬けされているのにおもしろみを感じた。

  驚愕のまま氷漬け鬼虎魚  僕がこの句を詠んだ感想は、最初は虎魚という漢 字がこのようなものだと知らなかったので驚きまし た。俳句から読み取れたことは、強面なイメージの ある鬼虎魚でも、捕獲され氷漬けされるのは恐怖だっ たのだろうということです。

  かははぎの口尖(とが)らせて釣られけり               (古林古空)  カワハギの口がとてもかわいらしく思う浮かばれ ました。

「かははぎの口尖らせて釣られけり」  夏になりカワハギが大きくなり、うまく餌だけ針 から取っていく風景が想像できます。人間と魚の知 恵比べをして、やっとやっと作者が釣り上げた嬉し さを短歌に書いたのではないでしょうか。カワハギ 討ち取ったなり!のような嬉しさが伝わってきます。 とても共感できるいい短歌だと思いました。

  かははぎの口尖(とが)らせて釣られけり               (古林古空) (感想)かははぎの形が口が尖っていて口が小さいの  を思い出した。いつか自分で釣ってこの俳句のよ  うな状況を作りたいと思った。

  かははぎの尖らせて釣られけり 感想  私は、人生で一回だけ、かははぎを釣ったことが あります。かははぎは、とてもおいしい魚です。こ の魚は、口が非常に小さく釣る難易度が非常に高い です。この句には、それが表れており、非常に良い 句だと思いました。

  かははぎの口尖(とが)らせて釣られけり               (古林古空)  カワハギを釣る際、カワハギは口を尖らせて餌を ついばむのでその場面がよく想像出来る。

  かははぎの口尖(とが)らせて釣られけり               (古林古空)  かわはぎの口、歯が人間に似ており、口尖らせる というように、カワハギを擬人化して表現した俳句 だと思い、面白く感じたのでこの俳句を選びました。

  かははぎの口尖らせて釣られけり (古林古空)  口を尖らせてというのは実際のかわはぎの姿であ るが、ここでは口を尖らせることを不満を持つとい う意味で使っているのだろう。海で釣りをしている シーンが頭で想像できる。コロナウィルスが収束し たら釣りに行きたいものだ。

  かははぎの口尖らせて釣られけり  カワハギが釣れた時の光景が目に浮かぶようだっ た。釣りに行きたくなった。

カワハギ    かははぎの 口尖らせて 釣られけり  カワハギを釣ったことがある自分が一番わかりや すい俳句でした。確かにカワハギの口はとがってい るが釣り針にかかることでよりとがることがわかり ます。

皮剥(かははぎ)   かははぎの   口尖らせて   釣られけり (古林 古空)  カワハギが釣れた情景がシンプルに分かりやすく 詠まれていてとても良いと思いました。  カワハギの口が尖っていることと釣られて怒って いることが二つの意味でかかっていて面白いと思い ました。

  かははぎの口尖(とが)らせて釣られけり               (古林古空)  私はカワハギだ。この吉見の港でエサ取り名人と 呼ばれてもうすぐ2年が経とうとしている。先日私 の古くからの友人が釣られてしまった。そいつは絶 対にミスを犯さない優秀な奴だった。エサ取りの腕 もお世辞抜きでプロの領域に達している。今回は釣 り人のほうが一枚上手だったのか。なんでもその釣 り人は不思議な餌を用いるらしい。その餌を前にし た魚は、いかなる注意を払っていても、針ごとかぶ りつかずにはいられないのだ。無論、私なら絶対に つられない自信があるが。まぁいい、そんなことを 考えていたらなんだか腹が減ってきた。そういえば さっきから上のほうで何やら美味しそうなものが揺 らめいている。あまりのいい匂いに体が無意識に反 応し、思考が完全に停止してしまっていた。今日の 朝飯はこれに決まりだ。いただきます。

  風立ちぬ縄文の蓮ひらくとき (梶田悦堂)  風立ちぬはポールヴァレリーでしょうか。ならば 続きは「いざ生きめやも」ですね。縄文蓮は数千年 前、縄文時代から咲いていた古代の蓮で、縄文時代 の当時の実が、掘り起こされて咲いたという出来事 もあったそうです。「どぶに落ちても根のあるやつ はいつかは蓮の花と咲く」と歌にありますが、数千 年はすごいです。長い地中の眠りから覚め、風を感 じた蓮は、生きることを試みねばならないと思った のでしょうか。

蓮(はす)   風立ちぬ縄文の蓮ひらくとき  蓮は1億4000万年以上前から存在していた最も古 い植物の1つで、2000年以上も前の遺跡から発見さ れた種から現代に咲いているものもあります。  その蓮の咲く場所は縄文、弥生の人々がみた景色 かも知れないと思うとロマンがあるなーと思いまし た。  風立ちぬ、なんて書いてあると作者、または作者 の家族?思い人?の死期が近いのかなとも思ってし まいました。

蓮(はす) 風立ちぬ縄文の蓮ひらくとき (梶田悦堂)  風立ちぬはヴァレリーの一節から生きることの決 意を意味し、古代の泥のから発見された蓮の種子が 花咲かせた姿を見て生命の凄さに感動しているのが 伝わってきました。

好きな俳句1つ目: 梅雨明けの航跡ながく出漁す 感想: 梅雨が明けて夏が本格的に始まる時に、漁に     出るため船に乗って海に出ている。船が通っ     た跡の海面の波が立っており、長く続いてい     る。梅雨の時期はあまり漁に出られなかった     ので、漁師たちが漁に出たいという気持ちが     表れており、漁師たちを応援したいと思っ     た。 好きな俳句2つ目:かははぎの口尖らせて釣られけり 感想: カワハギは口が小さく貝類などの固い殻を砕     いて食べている。カワハギには旬が2つあり、     身が美味しいのは夏頃である。この俳句から     カワハギを釣るのはなかなか難しいというこ     とが分かる。私は夏の時期にカワハギの身が     美味しい時に釣って食べたいと思った。